You are my precious.

任務の報告書を書きながら、ふと手を止めた。
今回の任務で一緒だった、ドライゼ、エルメ、ジーグブルートの名前を書いてから、小さく息を吐く。

ドイツに行った時のことを思い出した。
あの時は、ダンローおじさんに会おうとして、想定外のことになってしまった。
当時のドイツ支部の軍にとっては、マスターの命は駒でしかなく、それでいて実際に緊張の張りつめた『血の流れる戦場』だった。
下手を踏めばここで命を落とすことになるかもしれないと思った。軍人になる者として、どこかでそんな覚悟をしていた。
でも私は、薔薇の傷が多少悪化こそすれ、死ぬようなことはなかった。

ライク・ツーが助けてくれた。
あの時は、私のわがままでライク・ツーを巻き込んでしまったことに、本当に申し訳が立たなかった。
ドイツ支部に救出されたからよかったものの、捕虜にすらなってしまったくらいだから、なおのこと。
その時ライク・ツーは毒を突いてきたけど、それでも言ってくれた。

 

『誰にでも曲げられないことはあるし……どうしても、何かを貫かなきゃなんねぇ時もある』

 

あの後に、もう少しだけ何かを言いかけていたけど、それ以上彼が何を言おうとしていたのかはわからない。
本当に、ライク・ツーの言う通りだ。私は私の曲げられないことはあって、なんと言われようと譲れないことがある。
その最たるものは、私個人という人間の感情と、気持ちと、信念だ。

けれど、将来士官になる身である以上、軍の階級という名のもとに納得できない命令を受けることもあるかもしれない。それはわかっている。
でもきっとそうなった場合、私は内心では大きく反発するだろう。その反発が膨れ上がり大きくなりすぎた時、きっと私は階級も何もかもをかなぐり捨てて、反発が実行に移ってしまいそうな気さえする。

自分の中での譲れないものとは、そういうものだ。
ドイツでは、本物の戦場を目の当たりにして、本当の現実を知った。私が将来なるべき士官とは、この中で覚悟を持って銃を撃つのだと。
死ぬために戦うわけではないにしても、いつでもその時は突然訪れるのだと。

当時会ったばかりのエルメも言っていた。『マスター』という存在は、緩やかに、だけど確実に死に向かう。結果がわかっているだけ、と。
戦場にいれば死は近くにある。マスターとして安全な場所にいようとも、薔薇の傷の悪化によって死に至る。当時のドイツでは、それが当たり前だった。

戦場とドイツ支部の空気に充てられて、あの時の私は薄暗い気持ちを抱えた。
私はドイツ支部の人間ではないけれど、自分は、軍人としてもマスターとしても、駒として死んでいく。イギリスの軍人になっても、そのように扱われる可能性はゼロではないのだ。そう思ってしまった。
けれど、私に落ちてきていたそんな暗い影は、途中で吹き飛ばされていった。

 

──マスターを失うつもりはねぇ。俺がいる限り、ナマエを、破滅なんてさせねぇよ。
──お前らにとって、マスターは消耗品かもしれねぇが、俺は俺の意志でナマエを選んでるんだ。
──コロコロマスターを変える気はねぇ。ナマエを無駄に傷つける命令は却下だ!

 

ライク・ツーがそう言ってくれた。
まさか彼がそんな風に思ってくれていたとはまったく考えていなくて、作戦中にも関わらずひどく驚いてしまった。

その後にライク・ツーは、あくまでマスターをいちいち変えるなんて効率が悪いからそういう意味で言ったのだと言っていた。
でもきっとあれは、自惚れていいのなら照れ隠しだったのではないか、なんて私に都合のいいように考えることにした。

 

「……嬉しかったなぁ」

 

誰もいない教室で、記憶と共に口からこぼれた私のつぶやきは夕焼けのオレンジに落ちていく。

本当に、とても嬉しかった。
薔薇の傷が治療できない状況だった。しかし当時のドライゼから、絶対非道でアウトレイジャーを殲滅するよう命令された。
当然だった。貴銃士とはいえ、絶対非道や絶対高貴の力を使わずにアウトレイジャーを倒すのは困難だ。
そんな中で、特別司令官の命令に反発してまで、ライク・ツーは否定的な姿勢を崩さなかった。

途中、思い出したように、再びペンを取り報告書の続きを書いていく。

 

「……以上、報告終わり、と」

 

席を立って教室の電気を消し、報告書の提出に向かう。

 

「ぅおっ」
「いた……っ」

 

教室の扉を開けて廊下へ出ようとした瞬間、何かにぶつかってしまった。誰かと正面衝突してしまったというのはすぐに理解した。
相手の体に跳ね返されるように一歩後退しかけた私の腕を誰かが掴む。

 

「悪い、平気か?」
「あ……、ごめん、ライク・ツー」
「いや、俺もタイミング悪かった」

 

ぶつかったのはライク・ツーで、私の腕を引っ張り体勢を直してくれた。

 

「どうしたの?」
「お前がまだ報告書出してこないってラッセルが言ってたから、俺が様子見に来た」
「それはわざわざごめん。もう書けたから、今から出しに行くところだよ」

 

廊下を歩きだせば、ライク・ツーも隣を歩いてくれた。
報告書を出しに行くだけだし、様子を見に来たとは言ってもライク・ツーが提出の同行までする義務はないはずだ。けれども何も言われないまま一緒に教官室へと歩いていく。
ライク・ツーも一緒に来てくれるの? なんて言ったら「そういうつもりじゃねぇよ、じゃあな」と離れていかれそうな気がするから、あえて何も言わないでおく。そうすれば少しでも一緒にいられる。そんな風に計算を働かせてしまう私は悪い奴だろうか。

でも奇しくもこのタイミングでライク・ツーに会えるとは、私はきっと幸運なのだろう。
顔を見れて嬉しい。隣にいてくれて嬉しい。小さな喜びは、また今日も少しずつ積もっていく。

 

「随分、機嫌いいな」
「え、そうかな」
「ああ。めちゃくちゃ嬉しそうに見えるけど。なんかいいことでもあったのか?」
「そうだね……うん、いいことがあった」
「へぇ、よかったな」

 

詳しくは訊いてこないけど、よかったなと言うライク・ツーも少し嬉しそうに見えた。

 

「報告書書きながら、ドイツに行った時のこと思い出しててね」
「……まさかあの時のこと思い出したのが『いいこと』とか言わねぇよな」
「え、泥に入ったり蛇を巻かれたりした訓練はいいこと……じゃないけど、いい経験じゃないの?」
「あー、やめろ。今後のためにはなったけど、あれマジで精神すり減った……」

 

滞在中にドイツ支部の訓練を経験させてもらったが、ライク・ツーにとってはかなり精神的に苦痛だったようなのはあの時もそうだった。
あまり思い出したくないのか、ライク・ツーはそれ以上言うなと言わんばかりに手を横に振った。

 

「つーかその時も思ったけど、蛇巻かれて平気にしてるとかお前も意外と神経太いよな」
「いやぁ……、蛇が好きってわけではないからさすがにびっくりはしたよ?」

 

歩きながら、ドイツにいた時のことをお互いに話していった。あれが大変だった、これがすごかった、いろんなことが熾烈だった。
あれだけのことがあったものの、こうして思い出して話せるくらいには、私たちにとって良くも悪くも思い出深いものだった。

 

「でもね、ライク・ツー。私、ドイツにいた時、嬉しかったんだよ」
「そりゃそうだろうな。巻き込まれはしたけど『ダンローおじさん』にも会えたわけだし」
「うん、そうだね。それもある」
「他の理由で嬉しかった、って言い方だな。ドイツでお前が喜ぶようなこと、他にあったか?」
「あったよ。ライク・ツーが知らないだけだと思う」
「はぁ? 俺がいない時になんかあったってことか?」

 

ライク・ツーは心底不思議そうにしている。
その反応も納得できた。ドイツでは夜の就寝時と、私がダンローおじさんと二人で話をしていた時くらいしか、ライク・ツーと離れていた時間がない。

 

「……まぁよくわかんねぇけど、お前が嬉しかったなら何より」

 

どこか腑に落ちないようではあったけど、ライク・ツーはそれ以上の詮索をやめたらしい。
もう少し踏み込んで訊いてきてくれたら、言うことができたのにな。私としては自分から伝えてもよかった。そう思ったので、口を開いた。

 

「あの時ドイツに一緒に来てくれたのが、ライク・ツーでよかった。今思っても、それって嬉しいことだったよ」

 

かしこまりはしなかったけど、改まってそんなことを言われるとは思っていなかったのか、ライク・ツーは少しまごついたように見えた。そんな様子につい口元は微笑んだ。

ドイツ支部でのマスターの在り方を知った時、自分もいつか、マスターというただの駒として扱われ死ぬんだろうなんて一瞬でも思ってしまっていた。

ねぇ、ライク・ツー。
私にとって、ライク・ツーがあの時言ってくれた言葉がどれだけ嬉しかったか知らないでしょう?
私の命を大切に扱おうとしてくれたことが、どれほど嬉しかったか。

他の貴銃士の誰かが言ってくれても、私は同じように嬉しかったかもしれない。でもたぶん違うと思う。たしかに嬉しいけれど、そうじゃないのだ。
ライク・ツーが言ってくれたからこそ、私にとって大きな意味があることだったのだと思う。

それじゃあもし私がマスターじゃなかったなら、同じように思ってもらえたのだろうか。
そんな考えもちらりと頭を過るけれど、そもそもマスターでなければライク・ツーと会うこともなかったのだから、私がマスターであらねば彼と関われないことは必然なのだ。だからそこは、もう考えない。

 

「それは……どーも。今さらだろ」

 

ごまかすように私から視線を逸らすライク・ツーは、こういう時は少しだけ不器用にも見える。
私にも譲れないものがある。新たにそれができた、というほうが正しいかもしれない。

ライク・ツーを大切にしたい。
私の命を大切にしてくれるライク・ツーを、同じように大切にしたい。
今の私の譲れないことだった。私個人という人間の感情で、気持ちで、信念だ。

でもその気持ちが膨れ上がり大きくなりすぎた時、私はマスターとしての、あるいは士官候補生としての立場とか何もかもをかなぐり捨てて、気持ちが言葉に乗ってしまいそうな気さえする。
そのくらい、あの時のライク・ツーの言葉で私がどれほど嬉しかったかをきっと彼は知らない。

 

「大事に扱うから、今後もよろしくね」
「……なんだよさっきから。それも今さらだろ」

 

そして、それによって私を恋に突き落としたこともきっとわかっていないのだ。