Please take her somewhere right here.

日も暮れてすっかり暗くなったが、今夜は月が道を照らしてくれていたのでウインディは走り続けた。
着けるのならば早いうちに、と思ったがそうもいかなかった。

 

「ごめんウインディ……止まって……、」
「グル……!」
「そこの川……、水を、」

 

背に乗る主人を伺いながらウインディは土手を下りる。滑り落ちるように背から降りた彼女は手で水をすくい、必死に喉へ流し込んだ。
発熱しているのか……。大丈夫だよ、とも言われないまま荒い呼吸がしばらく続いた。ひゅ、と主人の喉が音を鳴らし、ようやく落ち着いたところでまた彼女は水を飲んだ。

 

「ガウ」
「うん……ありがとう」

 

ふらふらと立ち上がる主人は、土手を上ることすらままならないとわかる。
倒れこむように背に乗ってきた主人を気遣いながら、ウインディは極力揺れないように土手を上る。
そのまま地面に伏せたウインディにもたれるようにして、主人は背から降りた。今日はここまでだ、とお互いに暗黙の了解で。

彼女がぺたりと首に手を当てた。

 

「……気持ち悪いなぁ」

 

首や鎖骨に手を当てて主人は呟いた。そこは、大きな腫れになっているのは知っている。
今日は綺麗な満月だ。エストレアがそれに向かって手を伸ばすと、服の袖がずり落ちてきて腕が露わになった。

 

「……ウインディは、いつ知ったの?」

 

わたしが病気だと。

そう呟いた主人の露わになった腕には、黒い斑点模様がいくつもあった。

 

彼女の首と鎖骨に小さな腫れ物ができていて、彼女自身がそれに気づいたのは昨日の朝だったのだと思う。
何か虫にでも刺されたのだろうかとウインディは思った。それほど気にならなかったが、夕方になってから念のため彼女は先生を訪ねた。それを見た先生は顔を険しいものにした。

これは疫病だ、と先生は言っていた。
今、近国ではある病が広がっていて、主人はそれに感染していた。この腫れは初期症状だという。

今朝になって主人を見ると、腫れは大きくなっていて、腕を始めとして体には黒い斑点ができていた。
病に侵されていると告知されたのに、主人の表情はいつもと変わらなかったから、その時の彼女が何を思っているのかウインディにはわからなかった。

しかしながら、だからこそ今日、主人は辞職を願い出るつもりだったのだ。その矢先の、女王からの呼び立て。
先生が先にそれを女王に伝えていても不思議はない。女王には城を守る義務がある。病に感染した人間を城に置くわけにはいかない。それが、どれだけの側近であったとしてもだ。

主人が病気だと発覚しただけでも充分衝撃であったが、その直後に女王からウインディへ直接告げられたこともそれに匹敵したのだ。彼女を解雇した、と。

 

「……ガウ」
「……そう。先生から聞いたの」

 

月に向けて伸ばしていた腕を下げ、袖を元に戻す。
腕に浮き出たあの斑点は、病により出血斑ができているせいらしい。

 

「ガウ」
「……うん、わかってるよ。ウインディは自分の意志でわたしと来てくれたんでしょう?」

 

彼女を解雇したと女王から聞いたとき、女王はきっと、ウインディが彼女に付いて行くことを望んでいたのだ。

 

『エストレアを解雇した今、もうわたくしがあの子にできることは、何も無くなってしまったのです……。だから、』

 

どうか、あの子を独りにしないであげて欲しいのです。

女王という立場の者が、自分のような獣にあれほど綺麗に頭を下げることがあるなど、ウインディには信じられなかった。
女王は昔から自分にもよくしてくれた。敬愛する女王の願いとあれば、喜んでそれを聞き入れよう。

それでも、結果として彼女に付いていくことを決めたのは自分の意志だ。女王から言われるまでもなく、自分は彼女と城を出ていくつもりだった。

冷たい風が彼女の熱い体を冷やす。冷え過ぎる主人の体を温めるように、ウインディは体を丸めた。

 

「……今日は休もう。ウインディの目が覚めたら、また出発ね」

 

あまりゆっくりしていられる余裕はない。主人はウインディを気遣ってくれているのだろうが、自分よりも彼女が休まなければもたない。

眠りたくはなかった。それでも眠りに落ちた。
起きたらすべてが夢で、もしかしたらいつものように目覚めるかもしれない。そんな期待を少しでも抱いてしまう自分は、とても滑稽だと思えた。

 

 

再び出発したのはまだ肌寒い早朝だった。主人の熱は引いてはいなかったが、それ以上休むことを彼女は拒んだ。
はじまりの樹へはかなり近づいていたが、ふとウインディは足を止めた。ウインディは崖の上を見上げる。

 

「……ウインディ?」
「……ガウ」
「え……。そうか……ここで」

 

そうだ。ここで、ルカリオが封印された。
ウインディはあの日、ルカリオと戦場の偵察に行っていた。ウインディは、ルカリオが封印されるのを目の当たりにしている。

 

「ルカリオ……」

 

ルカリオは未だあの杖の中で眠りについている。
彼女もウインディも、目覚めさせる方法がわからなかった。同じように波導の修行を受けた彼女が呼びかけたりしても、何の反応もなかった。
あの人しか解放することができないのかも定かではない。

 

「……行こうか」

 

背中からの声は少し苦しそうに聞こえた。体が苦しいからではなく、自身に対する憂いや怒りを耐えるような。何も守ることができなかった自身を詰っているような。

それには何も言わず、ウインディは崖を上る。
しばらく進むと、目の前にはじまりの樹がそびえるほどに近くへたどり着いた。
はじまりの樹へつながっていると予想して、横穴へ入ると暗い通路が続いている。所々に結晶根が光っているが、足元が見えにくい。
不意に主人がウインディから降りた。

目を閉じて、感覚を集中させるように、彼女は小さく息を吐く。

 

「……ウインディ、付いてきて」

 

振り向いたエストレアは目を閉じていた。
目を閉じていても、主人には周囲が見えている。微弱だが、そういう力を彼女は持っている。ルカリオや、その師である彼のように。

そのときばかりは、体の不調を微塵も感じさせずに彼女は歩いた。だが先行く背中を見ると、思わずにはいられないのだ。

 

(このままどこか、遠くへ連れて行って)

彼女を、いっそここじゃないどこかへ。
そう思うのだけれど、それでも主人はここへ来たかったはずで。