※描写にご注意
彼女の体に頭を押し付けてから思い知らされた。
呼吸は荒い。自分を撫でてくれる手は黒くなってしまっているし、朱色の布に隠れた首は大きく腫れているのもわかる。
苦しそうに息をして拳を握りしめる彼女を前に、今の自分に何ができるのかウインディには何も浮かばなかった。
エストレアを一人にするなとあの日アーロンに言われてから、いつまでもどこまでも彼女と共にいようと思った。それは昔からずっと思っていたことだったが、改めて。
きっと彼女はアーロンがはじまりの樹にいるとわかっていたのだろう。だが自ら進んでそこに行く勇気はなく、何かきっかけを求めているように見えた。ウインディもそれは同じだったが、こんな形のきっかけなんて望んではいなかった。
ようやく主人をアーロンの元へ連れてくる機会が訪れても、その機会は彼女を何一つ幸せにはしてくれない。
アーロンがすでにこの世にいないと知っている。改めてそれを突き付けられる。その上、自分に時間もないとわかっている。
この病は急速に体を蝕む。それ故に対処が間に合っていない。
当人の彼女もわかっていたのだ。だから、もはや生きるか死ぬかという問題ではなかった。
どのように、どこで。彼女には、死ぬ時間と場所しか選択肢が残っていなかった。
「ウインディ、」
何も、何も言わないで。これが最後だからと言わんばかりに何かを言うのはしないで欲しい。
彼女は少し黙った。きっとウインディには推し量ることのできない感情が、今の彼女にはあり過ぎている。もう悲鳴を上げている。
「離れて」
従いたくはなかったが、彼女が力の入らない手で押し退けてきてはそれに反抗するわけにもいかない。
首に巻かれた布を外し、腰に携えていた剣を抜く。それが、大きく腫れた首へ当てられた。
彼女の目は謝罪の色を含んでいた。だが、口に出してそれは言わない。自分も何も言わない。本当は言いたいことがたくさんあるが、口を噛み締めてそれを耐える。
どこまでも共にと決めていたが、ここまで来てしまっては、あとは彼女自身が全てを決める。
遅かれ早かれ彼女の行く末は既に決定してしまっていて、それが刹那的に少し早まる。それだけだった。
手が震えている。苦しいだろうに、怖いだろうに。涙を流すほど悲しい、辛いのに。
──なぜこんなにも彼女が苦しむのだろう。
ここに来るまでにも、自分自身を責めていたのに。
彼女がなぜ剣を持ったのか。ウインディもその理由を知っている。守られるより先に守れ。先代の女王より受けたというその教えを全うするために。
だが“あの日”から、彼女は自分を詰っていた。自分は何も守れなかったと。あの日はアーロンに守られ、先日はリーンに守られたと。
自身で辞職を伝えることを、本当はとても辛く思っていた。城を去りたくなかった。自分の口から言うことをしたくなかった。
だがそれを女王が引き受け、解雇を告げた。女王もきっと辛かったのだろう。それでも解雇を言い渡してくれた。そんな女王の心遣いに守られた、と。
ここに来るまで、彼女は何度そのことを呟いただろう。
何も守れていないなんてことはない。
アーロンが孤独に苦しんでいた時、彼の心を守ったじゃないか。軍の訓練期間中、リーンとアーロンの名誉を守ったじゃないか。一人の男子を殴るほどに。アーロンと出掛けて行った日、襲われていたニドランを守ったというじゃないか。足に傷を受けたことも厭わないほどに。
平和を謳うロータに軍ができたのは悲しいことだと知っていた。
だがその中で、ロータが平和であり続けるために、兵として民の幸せを守っていたじゃないか。
自分と初めて会った時も、そうだったじゃないか。
しかし慰めにはならないと思ったから、言うことはできなかった。
「……けほっ、ぅ、ぉえ……っ!」
不意に口を押さえた彼女の指の間から、赤いものが流れる。
「ガウッ!」
「来るな!」
「ッ……!」
厳しい口調で制した彼女は、口元を拭い再び剣を首に当てた。
先程の鋭い声と違い、こちらに笑いかけた彼女は目を閉じる。
ああ、君の笑ったその表情が、自分は一番大好きだった。
──剣を持った手が、動く。そして、静かになった。
剣が音を立てて落ちる。その音は、とても大きく響いた。
一部が赤く染まった動かないその体に近付き、頭を押し当てた。
心臓の鼓動も呼吸も、彼女を生かしていた全ての音が聞こえなくなった。唯一の名残りである体温も、徐々に消えてしまう。
当然のように涙がこぼれた。
何よりも大切だった。誰よりも大好きだった。何物にも代えがたい人だった。
「ミュー」
「ガウ……ッ」
それまで黙って見ていたミュウが近付く。もう動かない彼女の額に、こつんと自身のを合わせた。
何をしているのか。この人はもう生きていないと、ミュウだってわかっているはずだ。
先ほど初めて対面したミュウはとても無邪気なようだが、それは無知と同義ではない。
そのままミュウの体が発光し始めたと思うと、はじまりの樹の内部であるこの空間が、それに呼応するように輝き出す。中心の結晶から、光の波紋がいくつも広がる。
「……ガウ!?」
見間違いかと思ったがそうではなかった。彼女の体が薄れている。粒子のように消えていっている。
驚いていられる時間はわずかで、そう時間をかけずに彼女の体はあったはずのその場所から無くなった。床にこぼれていた、彼女から流れ出たはずの赤い液体も。
何事もなかったかのように。最初から彼女はここに来てすらいなかったかのように。
代わりに残された光の粒は、中心の結晶へ吸い込まれるように飛んで行く。また、波紋が広がった。残っているのは、彼女が使った赤い痕跡も消えた剣だけだ。
我に返り、ミュウを見やった。
何をした。彼女をどうした。どこにやった。そんな感情全てを込めたが、ミュウは目を細めてしっぽを揺らすだけだった。
彼女はいなくなった。それは紛れもない事実。しかも、結晶化しているアーロンと違い、肉体すらも残っていない。それでも醜く朽ちたわけでもない。
一体何なのだ、何が起きたのだ。ミュウは彼女に何をしたのだ。
「ミュー」
悲しみと怒りで滅茶苦茶になりそうな感情の波が、首を傾げるミュウに鎮められた。
訳がわからない。それでもどうしてか、ミュウを責める気にはなれなくなった。
「ミュー!」
ミュウに視線を移すと、ミュウは楽しげに笑った。心配するな、と言うように。
「……ガウッ」
皆に会えなくなったことが寂しくて悲しくて仕方ないのに、それでも笑うミュウに苦笑した。
ミュウが、残された彼女の剣を不意に浮かび上がらせた。
「ミューッ」
体が浮いたような、視界が揺れたような、一瞬の感覚。
まばたきをした次には、先ほどまでいた場所に自分はいなかった。馬鹿な。一瞬で移動したというのだろうか。
そこは、目を見張るほど大量のおもちゃがある場所だった。
「ガウ……?」
「ミュー」
どうやらこの場所は、ミュウの住処の本拠地であるらしい。
傍に浮いている剣を、ミュウは草の生えた地面へ突き立てた。まるで思い出を残しておくように。
「ミュミュー?」
「……ガウ」
ウインディは頷いた。
ここで暮らすかどうか。悪くない提案だった。
ここが主人に一番近い場所。自分も、命尽きるまでここで暮らそう。
彼女はいなくなった。
あの場所にいるアーロンも生きてはいない。
アーロンの従者である彼は、眠ったまま。
皆、離ればなれになってしまった。
主人が消えた理由も過程もわからない。でも世界は自分のわからないことで満ちている。この樹もミュウも不思議だらけだ。逆に言えば、良くも悪くもどんな不思議が起こるか知れない。
また何かが起こるかもしれない。
今くらい、そんな期待を抱いてもいいだろう。
(おやすみ、大好きな人たち)
自分はもうしばらく起きているけれど。もうしばらく生きるけれど。
どうせ生きるのなら、どうか彼らの分も長く。