「はぁい、子猫ちゃん。今日も君はかわいいね」
開口一番にそういえば、マスターである彼女はきょとんとまばたきをしたがすぐに微笑んだ。
「ありがとうホール。今日も口がお上手で」
「まーたマスターはそういうこと言うの? 参っちゃうなぁ……」
「ごめんね。冗談だよ」
そう言って笑う彼女は、衛生室で使うシーツを広げて紐にかけていく。
「ナマエのそういうジョークって笑えないよね。俺はいつでも君に本気なのに」
「うん、ありがとう」
本当に冗談なのか、実際に信じてもらえていないのか。
恋人同士であるはずなのだが、彼女への愛情表現はだいたいこうしてあしらわれる。いや、出会った当初の自分の遊び行動を知っているのだから、仕方がないと言えばその通りだった。
しかし既に以前のような中途半端な遊びなどはしていないし、彼女もホールが行動と心を改めたのは知っている。その上で自分とこうした関係になってくれたはずだった。
でも、なんだかなぁ。
いまいち、彼女がこちらをどう思っているのかが読めなかった。想いが通じ合ったあの日は、彼女だってあんなにも顔を赤くして、好きと応えてくれたはずなのだ。
もはや残りも少なかったが、ホールは彼女の隣に並び、カゴから濡れたシーツを取り出し干すのを手伝う。あとは俺がやるよ、とウインクして見せれば彼女は素直に礼を言って笑ってくれる。
「ナマエ、この後は?」
「恭遠さんに呼ばれてて、会議に出ないといけないの」
「そっか。残念」
時間が許すならふたりで街にでも、と思っていたがさすがに会議に不参加にさせてまで引き留めようとは思えなかった。
彼女は普通の女性のはずなのに。
レジスタンスに所属しているとはいえ、戦場にいるべきような人ではないのに。
それでも自分ら貴銃士の傷を癒し、懸命にこちらと向き合ってくれる姿は、自他共に認めるスターのホールから見ても眩しいくらいだ。だからというわけではないものの、彼女のことを好きだと思える大きな部分だった。
「ナマエのそういうところが、俺はすごく好きだよ」
「え……?」
素直な気持ちだった。彼女の手を取って、徐に指先へ口づける。
さすがにこれなら本心と伝わったか、口がうまいだのと言われることはなかった。先ほどまでのあしらいはどこへやら、真剣に見つめるホールと目が合うと彼女の頬はじわりと赤くなるのが見て取れた。
「あ、りがとう……」
「俺の本気、ちゃんと伝わってる?」
「……いつも、ちゃんとわかってるよ。でも……」
「でも?」
「ホールの言うこと全部に一喜一憂してるのって、私ばっかり好きみたいで……。ちょっと癪だなって、思ってるだけ」
俯きながらも紡がれた言葉に、ホールはぽかんと口を開けた。
あ、やば。
スターたる者、愛する人にアホ面を晒すわけにはいかないという精神が、彼女がホールを見上げてくる前に表情を引き戻した。
思いがけない言葉への動揺を抑えながら、ホールは目を細めて顔を近づける。
もしかして、こういう余裕ぶってる態度がよくないのか? 先ほどの素直なアホ面を晒したほうが、彼女にとっては良かったのかもしれないと思ったが少し遅かった。
それでも、ここまで来たなら、もう一声。
「マスターは、俺のことどのくらい好き?」
たった今、ホールの本気は伝わっている、わかっていると言ってくれた。それならホールだって、彼女からどれほど愛されているかを知りたくもなる。
スターとして人々から愛されるのは楽しいし、喜ばしい。
もちろん、スターとしての自分の一番のファンが彼女でいてくれたらそれはそれでとても嬉しいことであるけれど。
しかし彼女からは、スターとしての自分が優先ではなく、ホールとして愛されていたい。だかららしくもなく、こんなことを聞きたくなる。教えて欲しくなる。
見返りを求めるわけではないが、自分をこんなに本気にさせているのに、彼女から本気で想われていないのは、むなしい。
彼女はきゅっと口を引き結んでいた。けれどもホールが握っていた手とは反対のほうを、ホールの頬にぺたりと当てる。
相変わらず顔は赤いままで、しかし不意にいたずらっぽく微笑んだ。
「……よもすがら、ずっと」
「え?」
「ごめんね。そろそろ行かないと」
「あ、ちょ……!」
するりと手を解いた彼女は、空っぽになった洗濯籠を持ってそのまま走り去ってしまった。取り残されたホールは首を傾げた。
なんだ、今の言葉……?
*
「……あ、いたいた。サムライ!」
食堂を訪れて見渡すと、探していた人物を見つけた。
ホールの呼びかけに顔を上げたイエヤスは軽く手を挙げて応えてくれた。
「ここ、いいかい?」と訊ねながらもすぐに座る。答えを待たずに着席したホールに、正面のイエヤスは少し驚いたようだったがすぐに笑みを浮かべる。
「どうした、ホール。俺に何か用だろうか」
「ああ、訊きたいことがあってさ。いや、教えて欲しいこと、かな?」
先ほど彼女から言われた言葉がずっと引っかかっていた。
ホールの知る言葉ではなく、言葉の響きからしておそらくは日本語なのだろうと思われた。だからイエヤスを探していたのだ。
もちろん他にも日本生まれの貴銃士はいるが、彼が一番こういうことを訊きやすいと思った。
「ほう? 俺が答えられることであれば答えるが」
「Thank you. さっきマスターから言われた言葉が、たぶん日本語だと思うんだけどさ……」
「ああ」
「ヨモスガラ、ってなに?」
彼女が言っていた発音を真似て訊ねると、イエヤスは何度か目を瞬いた。顎に手を当てて、ふむ、と一言こぼすと手元にあった紙とペンを持った。
「ひとまず解説をしよう。まず、よもすがらというのは君の言う通り日本語だ」
イエヤスは紙にペンを滑らせる。書かれた文字は『夜もすがら』というものだ。
「これで、よもすがらと読む」
「うん、OK。カンジとヒラガナだね」
多少は日本文化をかじっている身として、解説の導入はスムーズだ。
頷いたイエヤスは『夜』の文字に丸をつける。
「この言葉自体がそもそも古い言葉だが、マスターはよく知っていたな。まぁそれは置いておくとして、この漢字は『よる』と読む。今回は『よ』と読ませているが」
「ヨル……ああ、夜ね。nightか」
正解だ、とイエヤスは続いてヒラガナのほうへと丸をつけた。
「これが『すがら』だ。すがらというのは、始めから終わりまで、という意味だ」
「始めから、終わりまで……」
教えてもらった二つの意味を組み合わせようとして、ホールはただただ言葉を繰り返した。なんだか、理解したらとんでもない気持ちになってしまいそうで。
そんなホールの心情を知ってか知らずか、イエヤスは柔らかく、ひいては意味深にも見えるような表情で笑った。
「前後の文脈はわからないが、まぁつまり『夜の間ずっと、一晩中』という意味だ」
ホールはマスターからそれを言われた、と言っていたな。イエヤスの言葉は最後まで耳に入ってこなかった。
「はは……ありがとう、サムライ」
礼もそこそこに、ホールは堪えきれずついに机に突っ伏した。
深い……日本語って、深すぎる。
「はぁ~……、やられた……」
「気を悪くしたか?」
「いや……、最高の気分だね」
顔を上げて頬杖をつき、ホールは笑った。
きっとらしくもない赤い顔を、崩れた表情をイエヤスに晒していることだろう。
それでも今は、いつものようなスターの顔でいる気にはなれなかった。今のホールは、一人の女性に恋をするただの男だった。
俺も。俺もだよ、ナマエ。でも今の俺は、夜とか昼とか関係ないけど。
ああ、早く会議が終わって、早く彼女に会いに行きたい。
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イメージ曲は『夜もすがら君想ふ』