いいこな君は少し泣く

体温を感じると安心できる。
ただの人恋しさからそう思うのかもしれないけれど、なにかの本で「ハグをするとストレスが減る」なんていう情報を見たことがあった。
だからこうして抱きしめてもらって安心するのは、ただの気分的な話ではないのだろう。ちゃんと心理的ないしは生物学的に証明された現象だ。

 

「……マスター? 寝てる?」
「ううん。起きてるよ」
「あ、よかった。ずっと黙ってるから寝ちゃったかと思った」
「立って寝れるほど器用じゃないよ」

 

それもそっか、とシャルルが笑ったのがわかる。背中に回っていた手が動き、そっと頭に載せられた。

 

「ねえシャルル。今更だけど、何も訊かないの……?」

 

私がこんなことを尋ねたのには理由があった。
それというのも、先ほど私は唐突にシャルルの元を訪れ、脈絡なく彼に抱き着いたからである。
人目がないとはいえ抱き着いた直後のシャルルは「え……、え……!?」とひどく驚いた様子だった。それでもしばらくしてからおずおずと抱きしめ返してくれた。

そして現在は何事もないかのように、背中を軽く叩いたり頭を撫でたりしてくれている。
その間、私は何も言わなかったのだ。シャルルも何も訊いてこなかった。こちらからけしかけておいてなんだけど、疑問に思わないのかと。

 

「訊いたほうがよかったかな? そうだったら気が利かなくてごめん」
「いや、大したことじゃないから、どっちでもいいって言えばいいんだけど……」
「じゃあ訊こうかな。……どうかしたの?」

 

お互いの顔は見えないけれど、シャルルが頬を寄せてきたのがわかった。自分で訊いておいて、いざ尋ねられると答えるのに少し躊躇う。

 

「手の傷が痛い?」
「それは……少しだけ」
「そっか、でもそれが理由じゃなさそうだね」
「うん……」

 

躊躇っていた気持ちは少しだけしぼみ、どうせならと口を開いた。

 

「何かがあったわけじゃないんだ」
「うん、そっか」
「最近寒いからなのかな。なんとなく一人が心細いなって急に思って」
「うん」
「誰かに会ってお話しとかしたいなって思って」
「それで俺のところに来てくれたんだ」
「……急にごめんね」

 

謝ることじゃないって、とシャルルの明るい声が耳に響く。
そんな思考からそれを実行に移した自分が、なんだか子供みたいだと思った。いい大人であるにも関わらず、突然の心細さに負けてこんな風に誰かの温もりを求めて。

誰かに会いたかった。誰かに抱きしめて欲しかった。誰かから優しさをもらいたかった。誰かからほんの少しだけ、小さな愛をもらいたかった。そんな甘えを誰かに許してもらいたかった。
しかしだ。誰か、などと言いつつも私が求めていたのは、不特定多数の誰でもいい誰かではなかった。

途中から、自然と足は彼を探した。誰かではなく、シャルルに会いたいと思った。
見つけた時はまるで宝物を見つけたような気分になった。抱き着いたときには安心した。名前を呼べば何かが満ちていくようだった。抱きしめ返してくれた時はどうしようもなく愛おしかった。きっと、このひとでなければいけなかった。

寒いせいなのか、季節の変わり目だからなのか。なぜだか今は、少し心が弱くなる。悲しいような気持ちになった。子供みたいに、誰かに甘ったれる自分が馬鹿みたいだと思うのに。

 

「マスター、このあと俺とお茶しよっか」
「うん……?」
「パンケーキ作ってさ、ホットミルクと一緒にどう?」
「……うん」
「俺がおいしいの作ってあげるね」
「うん」
「そしたら食べながら俺とおしゃべりしてくれる?」
「うん」

 

シャルルからの言葉は、本当に小さな子供に対するような内容だった。泣きじゃくる子供を宥めるために言うような。
その言葉によって、視界がじんわりと滲む今日の私は本当にどうしてしまったんだろう。

でもそんなシャルルの優しさを、私はどこかで『痛み』として感じていた。ごめんなさいシャルル。私は嘘をついてしまった。
何かがあったわけじゃない、とさっき言ったけれど、本当は少し悲しかった。それでいて、今この瞬間にも胸が締め付けられるような苦しみに襲われている。

日々、シャルルヴィルが怪我をしてしまうことで、私には悲しみが蓄積されてしまう。
もしかしたらそれはシャルルヴィルもわかっているのかもしれない。

それでもシャルルは優しい。
本当に、たった今体現している通り、泣きたくなるくらいに。でも、それは誰に対しても一緒なんでしょう? そんなことを思ってしまう私は最低だ。

そう思ってしまうのはきっと、私が『マスター』などという望んでもいない役割を持っているからだった。シャルルはもちろんのこと、他の貴銃士たちも私をマスターと呼び慕ってくれる。それは嬉しい。しかし時々考えてしまう。

──それじゃあ、もしマスターでなかったならば。
彼らはここまで『私』を慕ってくれたのだろうか。私を大切だと、傍にいたいとシャルルは思ってくれたのだろうか。

マスターだからシャルルは私を大切にしてくれている。
マスターだからこうして抱きしめて受け入れてくれる。きっとそうだ。
マスターでなかったなら、『私』には見向きもされなかったに違いない。

そういった考えは、シャルルへ恋をする前から自分に言い聞かせていたことでもあった。
シャルルの優しさや言葉で自分が勘違いをしないように。勝手に勘違いして、思い上がって、それが間違いだったとわかった時に絶望しないように。

 

「シャルル……」
「うん、なぁに?」

 

優しく耳に響く声に我に返って、なんでもない、と告げた。

 

『貴銃士じゃなくても、仲間として俺を必要としてくれる? 好きでいてくれる?』

 

かつて絶対高貴になれずに、思い悩んでいた時のシャルルの言葉が思い出されたのだ。そして馬鹿みたいなことを訊きそうになってしまった。

──私がマスターじゃなくても、仲間として私を必要としてくれる? 好きで、いてくれる?

馬鹿なことを。そんなこと訊けるはずがなかった。
シャルルは優しいから、私が訊いてしまえばきっと肯定してくれるに違いないのだから。そして呆れることに、私が訊ねた場合の「好き」は、あの時シャルルが訊ねてきた意味とは違うのだろうから。

まばたきと同時に目からこぼれた水が、シャルルのシャツにしみ込んだ。
シャルルはそれに気づいたのかそうではないのか。体を動かしたと思うと先ほどまでよりも深く抱きしめてくれた。
そして、そっと額にキスしてくれたのが伝わった。

ああ、やめてシャルル。
そうやって私を勘違いさせないで。真綿で首を絞めないで。
けれども同時に、それは弱い私を打ち消してくれる最後の一手だったのだと思う。
ゆっくりとシャルルを見上げた。気が付けば体の真ん中がとても温かくて、涙だってもう消えていた。

 

「どう? 俺って特効薬でしょ?」
「ほんとに、そうだね」
「……パンケーキ作る前に、手の包帯変えようか」
「じゃあ、お願いしてもいい?」

 

ようやく笑った私を見てシャルルは安心したように、任せて、と笑った。

 

 

ああ、小さな子が泣いている。とても悲しそうだ。
どうにも放っておけない気がして、シャルルヴィルはそちらへ近づいた。

 

君、どうしたの?

 

かなしいの、と短く返事をされた。
そんな表情をして泣いているくらいだから、それはそうだろうけど。

 

どうして悲しいの?

 

だいじなひとが、ケガをしたの。
なるほど、それなら納得だ。これだけ泣いているくらいだから、よほど大事な人らしい。

 

君……、ねぇ、君も手を怪我してるよ。

 

わたしはいいの、へいきなの。
涙を拭うその手の甲からは、血が出ていた。それなのに自分の怪我が痛いからではなく、大事な人とやらが怪我をしたから泣いているらしい。

赤い手の甲に目をやる。
ややあって、シャルルヴィルは気が付いた。ああそうか、と納得した。つい口元に笑みが浮かんでしまう。
距離を詰めて小さな子の前にしゃがみ込む。そっと頭を撫でた。

 

いいこいいこ。ね、君はいいこだから、泣かないでくれると嬉しいな。

 

それでも小さな子は、涙を流しては手の甲で拭うことを繰り返す。

 

たくさん泣いたらお腹すくでしょ? パンケーキとか食べようよ。ミルクも一緒にどうかな?

 

顔を擦り続ける小さな手をそっと掴む。
手を避けさせて、ハンカチで頬や目元を拭いていく。

 

プリンとかもどう? あ、でも君はタルトのほうが好きだよね。

 

小さな子はようやく、こくりと頷いた。
やっぱりそうだよねとシャルルヴィルは笑った。すべてをわかっているかのように。
いや、もはやシャルルヴィルにとっては戸惑いも何もなかった。この泣いている子は、

 

──マスター。

 

はっとして顔を上げた。
私の手に包帯を巻き終えたシャルルは微笑んでいる。労わるように私の手を包み込んだ。

 

「大丈夫? どうしたの?」

 

なんてことないように笑うシャルルを見て、緊張がほぐれる。
だけども鉛を飲み込んだような重たい何かは晴れていかない。

 

「……悲しいって、思ってた。シャルルが怪我をするのが、悲しい」

 

シャルルは少し困ったように笑って、私の手の甲を指さした。

 

「君も手を怪我してるよ」
「私はいいの、平気」

 

まるで子供のような返事をしてしまう。それでもシャルルは優しく微笑んでいる。
そっと頭に手を乗せられて、いいこいいことあやすように撫でられる。とても優しくて温かくて、不意に涙腺が緩んでしまう。こらえきれなくて、また少し涙がこぼれた。

 

「大丈夫だよ、俺はここにいるから。君と一緒にいるよ」

 

なんなら俺の全部をあげる。だから大丈夫。泣かないで。

そんな風に言ってくれるシャルルは、いったいどういう意味でそこまで言ってくれるのだろう。
相変わらず私にはその真意は測り切れなくて、また少し自惚れてしまいそうな自分に小さく笑う。

 

「じゃあ、パンケーキの用意しようか」
「うん、そうだね」

 

私も彼に、私のすべてをあげるなどと言えたら、もう涙なんて流さなくて済むのかもしれないと。そう思う。

 

 

(マザーグース『Hush, baby,』より)

いいこ いいこ いいこだから泣かないのよ
パンをすこしあげるから ミルクも一緒にあげるから
それともカスタードプリンがいい? それともタルト?
いいわ全部あげるから 泣かないでちょうだいね