※これの続き。ベルギー編準拠。
十手からの申し出で、サリバン邸ではなく貴銃士たちの住む屋敷に滞在することになった。
仮にも候補生の上官というためなのか、私は一人部屋を宛がわれた。私と同部屋で何も気にしないのはライク・ツーくらいだろうから、ちょうどいいのだろう。
イギリス支部の機密情報に関わるので仕事は持ってきてはいないが、屋敷をふらふらしながら噂話も含めて情報を集めていた。
今は、ベルギー支部や貴銃士たちの情報が欲しい。とはいっても『ミカエルがかつての特別幹部と同じ個体である』という大きな情報が入っただけでも充分な収穫だと思うけれど。
カトラリーとはどうやらいろいろとこじれているようだが、十手が徐々に距離を縮めているという。候補生が丁寧に私にも報告をしてくれるので、一応私も把握できている。
そうして数日経った頃、ベルギー支部からアウトレイジャー討伐の応援要請が入った。現場でマチルダと合流し、トルレ・シャフのアジトと思われる場所へ制圧作戦を行うことになった。
アジトの制圧作戦の途中でアウトレイジャーが出現する可能性を考え、貴銃士とマスターらはそちらに備える。
「マチルダ、私は制圧部隊のほうへ同行でいいかな?」
私ではアウトレイジャーに有効な攻撃ができない。進言するとマチルダは少し眉をひそめた。余計なことを言ったかと思ったけど、機嫌を損ねたわけではないらしかった。
「……すまない中尉。お願いしよう」
どうやら申し訳なさや配慮やらが入っているらしい。
無事にアジトは制圧し、中にいた者も捕らえたがアジトにはわずか三人しかいないのは引っかかった。爆破テロを計画していたようだが、果たしてこれで終わりなのだろうか。
他に情報がないかと、床に放置されているゴミを雑に足でよける。
「イギリス支部中尉殿、どう思われますか?」
唐突に声をかけられて顔を上げた。ファルがこちらに目を向けている。
「どう、とは?」
「何かご意見がないかと思いまして」
「……イギリス支部の者がどれだけできるか試しているように聞こえますが」
「まさか。考え過ぎですよ」
ファルは変わらず微笑んでいる。その意図はわからないままだが、私はひとまず口を開いた。
「おそらく……ここにいたのは、捕らえた三人だけではないかと思われます」
ファルは満足げに頷いた。
「同意見です。私の見立てでは……ここには少なくとも、五人はいたかと」
今度は私が頷いた。
捕らえた三人はファルが尋問をすることになったが、なんとなく、何かを思わずにはいられない気持ちになった。
周囲はすっかり暗くなり、今から屋敷に戻るのも難しいためマチルダの勧めで司法機関の施設に宿泊させてもらうことになった。
ライク・ツーがベルギー支部の兵士に尋ねたことで、マチルダの現状と、シャルロット嬢との関係性が明らかになった。生家の名誉挽回のために、命を懸けるだけの価値と理由がマチルダにはあるのだろう。
*
宿泊した翌日の朝、さえない表情をした候補生と十手から報告を受けた。
ファルが、アジトで捕らえた男たちを拷問して口を割らせていたと。
男たちはすでにベルギー支部に引き渡されていったという。それならばすでに私ができることは何もないが、上官がいるなら報告せずにはいられなかったのだろう。
「申し訳ない、考えてみれば、夜のうちに中尉殿へ報告をするべきだった……」
「気にしなくていいよ。どのみち、ここはイギリスじゃないから私にできることもあまりないんだよ。私の階級程度じゃ、ベルギー支部に直接何かを訴えてもほとんど相手にされないだろうし」
外国の支部、つまりはベルギーにおける部外者と言え、それでいて大した階級ではない私ではあまりに多くの制限がある。
「でも、報告してくれてありがとう。……拷問現場なんて見て、ショックだったでしょう」
明確に肯定はしてこなかったが、ふたりの暗さをまとった表情がすべてを語っていた。
候補生も十手も、人に共感し、寄り添い、優しさを与えられる人だ。そして慈悲深い。そんな彼らのことだから、敵であると理解はしていても、拷問で苦しむ男たちを見て悲しんだことだろう。自分のことのように苦しんだことだろう。
あまり得意とも言えないけれど、今の私ができることは、彼らに寄り添い心を守ることだった。
無事に屋敷に戻り、屋敷内を歩く中でマチルダを見つけた。訊きたいことがあったので声をかけようとしたが、ライク・ツーの声が聞こえて身をひそめた。
ライク・ツーの口ぶりからして、私や士官学校へ報告する情報を得るためにマチルダに問うているのではないと理解できた。
ファルは、世界帝軍にいたものと同一の個体である。
会話の中で得られた新たな情報だった。驚いたようで、驚いていないような。どちらともいえない気持ちだった。
そんなまさかという気持ちはあったけれど、答えを知ってしまえば、ああやっぱりなと思えることだってあったからだ。
ファルもミカエルも、いや実質は戦場に赴いているファルだけかもしれないが、トルレ・シャフをおびき寄せるエサとしての理由があった。
ライク・ツーが自らそのコードネームを名乗っているのと同じ理由だ。それによって釣られた敵に打撃を与えられれば、ベルギーの国際的な立場は大きく変わることだろう。
会話に耳をすませつつ、頭の中で思考していると話題は切り替わっていく。
ライク・ツーがそれをネタにしてマチルダに問いを投げる理由は何か。取引としてマチルダから得たい情報はなんなのか。
「返還から召銃の間に何があったんだ? お前の知っていることを教えろ」
なぜ、世界帝の銃たちの行方を知りたいのか。
マチルダによれば、ベルギーおよびドイツへの搬送中に、武装勢力に襲撃されたという。それはミカエルが破損したという襲撃と同じ時だったのだろうか。
「その際に、DPSG-1やKB EFFなどの銃が持ち去られた」
マチルダの声に、吸い込んだ空気が妙に冷たくなるような気がした。
ああ、それなら。それならおそらくは。
そこまで考えて、陰の中で静かに目を閉じた。
ライク・ツーはイギリスにおける襲撃事件のことを尋ねたが、マチルダはそれに関しては何も知らないようだった。
……ライク・ツー、君はどうして、前身の行方を知ろうとした?
きっと質問しても本人は答えようとしないだろう。私がライク・ツーと面と向かってそれを問いかけることは、今やるべきことではない。これに関しては、様子を見てもいいだろう。ライク・ツーが連合軍に不利益な行動を取ったわけではない。
彼らの会話が終わり、マチルダが去っていったのがわかる。
壁につけていた背中を離して、私はその場を後にした。
銃の手入れをしている途中、部屋の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
私が軍人であるとわかっている以上、銃の手入れを見たところで驚く使用人もいないだろう。そのまま手入れを続けていると、扉が静かに開いた。
「失礼、中尉殿」
てっきり屋敷の使用人だと思っていたから扉のほうへ目を向けてはいなかった。声を聞いて初めて、私は扉へ目を向けた。
「ファル……?」
とっさに立ち上がり、しかしゆっくりそちらへ近づく。ファルは開けた扉の前から動かず、自ら部屋に入ってこようとはしない。
「ご機嫌いかがです?」
「ええまぁ、おかげさまで快適に過ごせています。そちらは?」
「私も、まぁまぁでしょうか」
「そうですか、何よりなことです」
「失礼ながら、少しの時間、中へ入れていただいても?」
その要求には少し驚いた。ファルがたかが挨拶のためだけに私の部屋に来たわけではないのは理解していたけれど、立ち話に収まらない何かがあるということだ。
「……ええ、どうぞ。すみません、銃の手入れをしていたのでテーブルが少し散らかってしまっていて」
「かまいません。お気になさらず」
ファルを迎え入れ、扉を閉める。
私は先ほどまで座っていた場所に座り、その向かいのソファーにファルが腰かけた。
「……それで、ご用件は?」
するとファルはいつもの微笑みに加えて小さく噴き出すように笑った。
「まずは、改めてご挨拶といきましょうか中尉。……七年前と、お変わりありませんね」
かまをかけるとか、腹の探り合いとか、そういうものは一切なかった。ファルらしくなく、直球で投げかけられた言葉に私は思わず息をのんだ。
彼が、ミカエルと同じように私が知るファルだということは秘かに知った。しかし可能性も考えていた。ミカエルのように、彼も当時の記憶を失うなどの障害を負っているのではないかと。だがその可能性は、たった今崩れ去った。
ゆっくりと息をつく。自然と口元には笑みが浮かんでいたことだろう。
「……覚えててくれて、嬉しいよ」
「少しばかり精悍な顔つきになられましたか?」
「老けたってこと?」
「いえ、とんでもない」
ファルは首を横に振る。取り繕った丁寧さを取っ払ったその会話は、かつてのことを想起させるには充分だった。
「その様子ですと、私が世界帝の銃であることはすでにご存じのようですね」
「それをわかってて来たんじゃないの?」
「ええ、もちろん。候補生の方から報告がいくと思っていましたから」
私が彼のことを知ったのは候補生からの報告ではないが、察するに候補生もファルの正体を知ったようだ。ライク・ツーが秘かに伝えたのか、別の何かで知ったのか。
「この屋敷であなたにお会いした時、実は驚いたんですよ。……生きていたとは思っていませんでしたから」
彼の言葉に私は少し黙った。
生きていたとは思わなかった。七年前の革命戦争のことを言っているのは明白だった。私も当然、あの日あの時、あの場所にいたのだ。
貴銃士が人の姿を保てず、肉体が消滅してしまうような戦場。
そんな場所で私が生き残っていたことは、さすがのファルも驚くことだったのだろう。
そして七年も経ってから、当時面識のあった人間が外国からやってきて自分の前に現れた。状況だけを見れば、ファルの立場なら私だって驚く。
「最初は他人の空似かと思ったりもしたのですが、名前もあなたのものでしたし……何より、あなたはあなたのままでした」
「いい意味として受け取っておくよ」
「世界帝軍にいたという境遇は私と同じとはいえ、人間であるあなたがなぜ刑罰もなく連合軍にいるのかは、今は聞かずにおきましょう。そういったことを話しに来たわけではないので」
私の経緯に興味を示しているのと同時に、前置きの雑談はここで終わりだと遠回しにファルは言っていた。
わずかな沈黙のあと、ファルは口を開いた。
「……実は、かつての同僚から接触がありましてね」
その一言で、空気は張り詰めたものになったような気がした。
私が勝手にそう感じただけで、ファルはそうではないのかもしれない。
驚かなかったと言えば嘘になる。しかし私自身は静かに返事をしていた。
「それは……誰から?」
「どうやらその人は、連合軍に属しているそうですよ」
濁されたのだとわかったが、ファルがそれをしたのは『かつての同僚』への配慮なのか、現状連合軍にいる私への配慮だったのかはわからない。
いやしかし、連合軍に属していて、かつて世界帝軍にいた銃と同型ともなれば対象は限られる。今は、それを考えるのはやめておくことにした。
「今夜、元同僚の貴銃士と接触する機会があります。場所は街はずれの倉庫です。……接触してきた者の言葉がどこまで正しいか不明ですから、様子見として行くつもりです」
ファルの話をじっと聞いていた。私が彼を見つめると、細められることの多いファルの瞳が私を見つめ返してくる。その美しい紫色の瞳を、懐かしいと思った。
「……それを私に言ったのは、どうして?」
「あなたもいらっしゃるかどうか、確認に」
ためらいなく言われた言葉に、膝に乗せていた手に力がこもった。
決して試されているわけではないのだろう。
かつての組織と連合軍のどちらを取るかとか、そういうことを問われているのではない。
言葉の通り、ファルは確認のために私に話したのだ。しかしかつてから互いに面識があったとはいえ、今の私は明確に連合軍に属している。私にそれを話すことのリスクがわからないファルではない。
私が、今聞いたことをベルギー支部に伝えれば、ファルが聞いた情報が本当ならば世界帝軍の特別幹部の貴銃士を叩けることになるのだから。
けれどファルは私に話した。自分の正体を明かし、私のことも覚えていると私に伝えたうえでだ。
共に行くことによって、私にとって多かれ少なかれ何かがあるということだろう。
ファルからすれば、もしかしたらわかりにくい気遣いであるのかもしれない。私が面識があった特別幹部たちは、ファルやミカエルだけではない。
「……妙に、私を信じてくれてるんだね」
「信じる、とは少し違うかもしれませんが……あんな愚弟と、親しくしてくださっていましたから」
どうやら少なからず、ファルは私を信じているのはわかった。だからこの話をした。彼が私にしたのは『連合軍同士の報告』ではない。『知り合いとの会話』だ。
実際に、ファルが聞いた情報がどこまで本当なのかはわからない。その場所に来ても、誰も来ないかもしれない。けれど本当に、かつての特別幹部らが来るかもしれない。
私がこれを聞いても、連合軍に『報告』はしないだろうとファルはわかっているのだ。だからこそ、私も同行するかどうかを問うている。
現在のマスターであるマチルダにも言っていないだろう。
静かに息をついた。
「誘ってくれてありがとう。でも……遠慮しておくよ」
「そうですか」
落胆した様子もなく、ファルは頷いた。きっとイエスと答えていても特に反応は変わらなかっただろうと思う。
「正直なこと言っていい?」
「なんでしょう」
「言い方は悪いけど、私は別に、連合軍にこだわってはないんだよ。なんの組織とか、どこかに属すかはわりとどうでもいい」
「そのあたりも、昔とお変わりないようで。階級にもこだわっていませんでしたね」
そんなことまで覚えてるのかと、少しだけおかしくなった。
「だから正直、ファルと行ってみてもいいんじゃないかと思った。でも今は、候補生と十手とライク・ツーが一緒だから、それはできない」
「彼らの立場が悪くなるから、ですか」
言葉で肯定はしなかったが、少し笑って見せた。
連合軍の一員としてというより、私が守りたい範囲はもっと狭かった。
同行していた上官が報告もなくトルレ・シャフ側と秘密裏に接触したとなれば、候補生も、その貴銃士たちもただではすまない。トルレ・シャフの息がかかっているのではないかと疑われるだろう。
トルレ・シャフへのエサとすることが前提のファルと、そうではない私とでは、接触する理由が違うと思われて当然なのだ。
部下と言える彼らに罪はない。何かあった時に責められ咎められるのは、私一人でなければならない。
自分が手の届く範囲は、自分が情を向けた者たちは、大切にしていたい。
候補生らはもちろんだけど、ファルのことだって大切にしていたい。だから本当は彼ひとりで行かせたくはない。
けれど私では、一度にいくつも守れない。
「わかりました。……では、私はこれで」
「ファル」
「はい?」
「会えた結果がどうあれ、ファルはファルの選びたいほうを選ぶといい」
ファルは数度目を瞬いた。ずれてもいない眼鏡を軽く上げる。
「連合軍としておかしな言葉ですね」
「ファルの知り合いとして言ってるんだよ」
その言葉には何も言わなかったけれど、ファルの口元は笑みを浮かべているように見えた。
ファルは立ち上がると扉へ向かっていく。見送りで私もそちらへ向かう。
扉に手をかける直前、ファルは振り向いた。
「情報が本当であれば、今夜会うのはアインスとエフでしょう。向こうが今のあなたを知っているかは不明ですが……何か伝言があればお伝えしますよ」
ファルの言葉に少し面食らってしまった。一瞬言いたいことを考えたけれど、首を横に振った。
「……自分で会って、自分で言うよ」
「そうですか」
それだけ言って、いよいよファルは扉を開けた。そして今までの会話と違い、口調は同じながら壁がある堅苦しい挨拶を口にした。
「では失礼、中尉殿」
「ええ、ではまた」
屋敷にいる者に、私と彼がかねてより面識のある者だったと知られてはならない。
私もそれをわかっているから、わざとらしいくらいにこやかな笑顔で、短いのに堅苦しい言葉でファルを見送った。
その日の夜、ベッドに入っていた中でふと目が覚めた。するとちょうど部屋の扉がノックされた。返事をすると、扉の向こうから声が聞こえる。
「マチルダだ。夜分にすまない中尉。至急、身支度と装備を整えて来て欲しい。それと、候補生や同行の貴銃士も呼んでいることを先に謝罪しておく」
それだけ言って、扉の前から声は去っていった。
嫌な予感がしたが、考えるより先に私はベッドから飛び出した。
指定された部屋へ行きマチルダと合流する。少し待てば、候補生、ライク・ツー、十手、ミカエル、カトラリーと次々にひとが集まった。
マチルダはミカエルと一瞬目配せをしたかと思うと、険しいような落ち着きがないような様子でしゃべりだした。
「ファルに、トルレ・シャフの者から接触があったという情報が入った」
開口一番の言葉に、私は内心でひどく動揺した。しかし候補生もライク・ツーも十手も驚いていたから、顔に出ていたとしてもおかしく思われたりはしないだろう。
まさか昼間のファルとの会話が誰かに聞かれていたのか。そう思えて、けれどそう言うことが不思議ではない質問で投げかけた。
「その情報は、一体どこから?」
「ミカエルからの情報提供だ。ファル本人からその話を聞いたそうだ」
思わずミカエルのほうを見るが、彼は私のことなど見てはいないし、表情も変わっていない。
「ファルと共にミカエルも引き込もうという算段だったのかもしれないが、様子見のためにファルはひとりで接触に応じる判断をしたそうだ。情報と、接触してきた者の存在がどこまで本当か不明なら、ファルが様子見に行くと判断したのも納得できる。ファルのことだ、私には事後報告でも遅くはないと思ったのだろう」
マチルダの言葉を理解できるようで、私は昼間の会話を思い出していた。私がファルから聞いた話と何かが噛み合わない。
ミカエルも、私のようにファルから同行の誘いをかけられたのではないのだろうか。
そう思ったものの、だからといって今この場でミカエルに問いかけることなどできない。
「場所と時間は割れている。ファルの後を追うことで、トルレ・シャフの者たちを叩ける可能性は高いと踏んだ。すぐに作戦へ移る」
*
どうして私は、ここに立っているのだろう。
どうして私は、何もできないのだろう。
どうして私は、愛したものたちと胸を張って会うこともできないのだろう。
どうして私は、大事なひとたちの再会を喜び、祝福することもできないのだろう。
マチルダの指示を受けベルギー支部の兵たちが突入していく。その様を見てファルは混乱と共に唖然とし、彼と共にいた、私も知るふたりの男は悲しげに肩を落とす。
彼らふたりはきっと勘違いをしただろう。ファルが自分たちを売ったのだと。
そうじゃない。そうではないと言いたかった。ファルは先ほどあの瞬間、ふたりと行くことを選んでいたというのに。
「アインス……私は……!」
ファルの声が銃声に混ざる。
「……エフ、行くぞ」
ファルが心を許していた男が静かに言う。
「……さようなら、ファルちゃん……」
ファルの実弟が、あのひとが、そんな悲しい言葉を放つ。
だめ、やめて。お願いだから、ファルを連れて行ってあげて。あなたたちふたりが、ファルから離れていかないで。
悲しくてやるせない。唇を噛み、銃を握りしめ、私は地面を蹴った。
「止まれ、トルレ・シャフ!」
ベルギー支部の兵たちの間を駆け、声を張り上げる。せいぜい一瞬でも目を引け。
銃撃戦の中で男たちふたりが私を見やる。ああ、ちゃんと、久しぶりだねと一言言えたらよかった。
こんなに近くで彼らといるのに、再会を喜ぶことすら許されない。
アインスとエフがファルを誤解したことが悲しい。すれ違ってしまったことがわかっているから、私は悲しい。
だから戦場なのに、涙が出るのだ。
一瞬だけ目があったエフは、私を見て目を見開いたような気がした。美しい表情が苦し気に見えた気がした。
きっときっと、すべて私の思い過ごしなのだろう。
エフの銃口が向けられたことを目が捉えた。撃たれる。
そう思ったのに、覚悟した痛みは訪れなかった。代わりにエフの放った紫色の強力なオーラで体が吹き飛び、地面へ叩きつけられる。
「中尉殿……!」
誰かに呼ばれる。誰だっていい。
体はひどい痛みを訴えているが、痛いと思っている暇もない。上半身を起こした時に見えたのは、炎によって生まれた煙の中で姿を消していくふたりだった。
そして次に見たのは、世界のすべてを否定したファルの悲しい姿だった。
*
実技訓練をちょうど終え、生徒たちが校舎に戻っていくのと入れ替わりで、ライク・ツーと十手がやって来た。
「中尉殿、訓練を終えたところにすまないが、すぐに来てもらえるだろうか」
十手の表情はいつになく険しい。何事かどうかは校舎に向かいながら聞くことにして、彼らと歩き出す。
「何があったの?」
「さっきまでシャルロットが来てた。マチルダの代理で……、修繕が終わったKB FALLを持ってきた」
それを聞いて、心臓は早鐘を打った。炎にやられてひどい損傷が残ったが、なんとか元の状態に戻すことができたらしい。
そして候補生の判断が尊重され、つい先ほどファルが再召銃されたというのだ。
「だが……ファル君は、その……記憶を失ってしまったようなんだ」
言いにくそうに、けれど十手はしっかり私に伝えてくれた。
「……そう」
ベルギーで関わっていたミカエルやカトラリーのことはもちろん、十手のこともライク・ツーのことも『初対面』と迷いなく言ったそうだ。
ライク・ツーと十手が私を呼びに来た理由は理解していた。私もベルギーで起こったことの当事者だ。仮にそうではなかったとしても、貴銃士に関わっているこの学校の教官として事態を把握しておかなければならない。
きっと私を呼んでくることは、ラッセルの指示でもあったのだろう。
しかし、校舎に入って廊下を進みながら、途中で足を止めたくなった。
私がファルと対面したところで、なんだというのだろう。
何もしてあげられない。何も言ってあげられない。記憶がないのならばなおさらだ。
だがそういった思考に反して、私は足を止めなかった。到着した応接室の扉をノックし、静かに開けた。そこには候補生とラッセルと、ファルがいた。
ゆっくりと近づき、適正な距離を空けてファルの前に立つ。ファルは首を傾げた。
「失礼、どちら様でしょう?」
ああ、やっぱり。当たり前のように私のこともわからない。わかっていた。
「……」
「どうかされましたか?」
「……ううん、なんでもない」
「そうですか」
わからなくてもいい。思い出せなくてもいい。
私は名前を名乗った。それに対してもファルは、どうぞよろしくお願いしますと言うだけで、何の反応も示さなかった。ベルギーで会った時もこんな様子だったことを思い出して小さく笑う。
記憶がなくても私とファルには支障はないのかもしれなかった。
すると、ファルがこちらを凝視していることに気が付いた。
「ファル?」
「あなた……、──どこかでお会いしましたか?」
部屋の空気がわずかに変わったのを理解した。覚えているのだろうか。わずかでも記憶が残っている兆しがあるなら、彼の今後の待遇を大きく変えてしまうだろう。
覚えていたとしても私のことを、七年前に会った者として覚えているのか、先日にベルギーで会った者として覚えているのか。
しかし、きっと違うと思った。私のことを覚えているわけではないのだろう。
ファルが感じたのは、ほんのわずかな残り香だ。
私は首を傾げながら笑って見せる。
「どうだろう? もし思い出した記憶に私がいたら、会ってるってことじゃないかな」
私の言葉は、ここにいる他の者たちが聞いてもなんら違和感を抱くこともなかったことだろう。
記憶は失えど、私と彼はベルギーで会っている。決して、七年前のかつてのことではなく。
そう言って笑う私にファルが何を思ったかはやっぱりわからない。それでも、
「また会えて嬉しいよ、ファル」
伝えた言葉に、嘘や偽りなど、こっれぽっちもありはしなかった。