今日からオルドラン城に新しい人が来る。
わたしが知っている情報はそれだけだった。そのこと自体は数日前からあらかじめ聞いていたので、すでに知っている。
その人が入ることになる部屋の用意もしたけれど、どんな人が来るのかは知らない。男なのか女なのかもわからない。それなりに広い部屋を用意することになっていたので、おそらくは自分たち召し使いより立場は上の人だろう。
そんな予想しかできていなかったけど、一つ確信できるのは、きっと誠実で優れた人が来るだろうということだ。
リーン様の目に狂いはない。リーン様が選んだ人ならば、きっとその人選に間違いはないと思える。
これからその新たな従者と謁見する。
自分の手にある鮮やかなプラチナブロンドの髪を丁寧に結い終えた。
「リーン様、終わりました」
「ありがとうエストレア」
鏡越しからのリーン様の笑顔に笑い返した。
「ちょうどいい時間ね。では、行きましょう」
「はい」
リーン様の侍女であるわたしも当然後に続く。
「今日から城に来る方は、波導使いと呼ばれる人です」
「波導使い、ですか?」
初めて聞く言葉だった。
城に仕える者として人並みの学はあるけど、初めて聞いたので知らないものは知らない。リーン様はわたしを振り返って小さく笑った。
「目で見えずとも周囲を感じ取り、その能力を使いこなす人をそう呼ぶのです。誰にでもできることではないのですよ」
「すごい方が城に来るのですね」
「ええ。ですが、ここでの生活に慣れるまで苦労することもあるでしょう。その時は、彼らを手助けして差し上げなさい」
「承知いたしました」
与えられた新しい役割をきっちりと胸に収めた。頷いたわたしを見てリーン様は再び歩き出す。
もうひとつわかったことが増えた。今日から来る人は男性だ。そして複数人。さっきリーン様は『彼ら』と言っていた。
波導使いというすごい人で、男性で。結局はそれしか事前情報は集まらなかったが、特に気にならなかった。これからその人はここに来るのだから。
そうして、いつものように玉座に座るリーン様の斜め後ろに、影のように自分の位置をとった。
*
オルドラン城の謁見の間、その扉の前に一人の青年と、もう一人、人間とは違う生き物である彼の二人がいた。
「ルカリオ、そこまで緊張しなくていい」
『……はい。しかし、やはり女王様を前にすると思うと、どうしても……』
「そうか。だが、私もルカリオのことは言えないな」
『アーロン様もやはり?』
「それはそうだろう。これから長きにわたり仕えることになるだろう御方に会うのだから。だがそれでも、ルカリオほどではないからな」
緊張した面持ちのルカリオに、アーロンと呼ばれた青年は笑いかける。
ルカリオが改めて佇まいを正したのを合図に、アーロンは扉を開けた。
大理石の床が広がるその部屋の玉座には、まだ若き女王が鎮座している。この国の王であり、オルドラン城の城主である女性。穏やかでありながら、間違いなく王としての威厳を持つその人の前に進み出て、アーロンとルカリオはひざまずいた。
「アーロン、ルカリオ、ここに参りました。本日からこの城にお仕えさせていただくこと、心より感謝いたします。リーン女王陛下」
「顔をお上げなさい」
凜とした声が響き、二人はそれに従う。
女王の傍に控えている少女と一瞬だけ目があった。
「よく来てくださいました。波導使いアーロン、その従者ルカリオ。あなた方の城でのこれからに、どうか幸多からんことを」
「お心遣い感謝いたします」
再び頭を垂れると女王は微笑んで玉座から立ち上がる。
「さあ、堅苦しい挨拶は短く済ませましょう。二人には早く城に慣れていただきたいこともありますし。エストレア、お二人に城内を案内して差し上げなさい」
「かしこまりました」
女王の傍に控えていた少女が玉座のある位置から降りると、アーロンとルカリオは立ち上がりその少女へ付いていく。
各々が女王へ一礼し、謁見の間を後にした。
「申し遅れました。わたしはリーン様の侍女を務めているエストレアと申します。以後お見知りおきを、アーロン様にルカリオ様」
アーロンとルカリオに向き直り、少女は丁寧にお辞儀をした。
年頃なのだろうが、まだどこか幼さも垣間見える。
彼女が自己紹介を終えた瞬間、ルカリオは慌てた。自分が今、様付けで呼ばれたことをルカリオは聞き逃さなかった。
『おやめください、エストレア様! 私は様付けで呼ばれるほどの者ではありません……!』
「ええ……? しかしそれでしたらわたしも同じです。様付けはおやめくださいませ」
エストレアはただの侍女だ。波導使いという、誰しもできるわけではない特殊な役割を担う彼らに敬意を払うことは彼女にとっては当然のことだったのだが、ルカリオにとってはそれをされると困る。
しかしそれならば今ルカリオがエストレアに対して「様」と付けることも、彼女にとっては同じことが言えるのだ。首をかしげるエストレアと慌てるルカリオにアーロンは笑った。
「すまないエストレア、ここはルカリオの進言を聞き入れてもらえないだろうか。彼はまだ波導使いとしての修業を始めていない。その分、あなたからの敬意を引け目に感じてしまうんだ」
「そうなのですか……。わかりました、そういうことでしたらルカリオと呼ばせていただきますね」
アーロンが言った理由もあるが、いずれにしろ慕っている自分の師であり主人でもあるアーロンの前で様付けされることがルカリオには困るのだ。
ほっとしたルカリオに小さく笑い、城の案内が始まった。
「この先は調理場です。他の使用人も入ることは可能ですが、できるだけ入るのは控えてほしいとの料理人方からの要望です」
「そうか。それでは空腹の勢いで忍び込んでしまわないように、気をつけなければならないな」
冗談めかしたアーロンの言葉にエストレアは面食らった。彼には真面目な印象を受けていたが、どうやら意外にも茶目っ気があるらしい。堅苦しい人物ではないというのがわかったエストレアは小さく笑う。
「ルカリオ、アーロン様と一緒にいらっしゃる時は、アーロン様が盗み食いの犯人にならないように見張っていてくださいね」
『わかりました』
まさか自分の主人がそんなことをするとは到底思えないが、エストレアの冗談交じりの返しにルカリオも頷いた。
城内の重要な部屋の案内を終えて、そのまま外に出て庭を歩く
「向こうには闘技場があります」
『闘技場?』
「社交のたしなみとして、貴族や王族の方々が優れた剣技を披露するために造られたようなので、決して決闘の場ではありません」
元々その闘技場の使用頻度は高くないため、それこそ何かしらのパーティーの時などに少し使われるだけなのだが念のためとエストレアは説明を付ける。
不意に、アーロンは何かを感じた。
「アーロン様? どうなさいました?」
「……何か来る」
『何か……?』
わずかに警戒の色が見える表情に、ルカリオも周囲を見回す。
その瞬間、植え込みから巨大な何かが飛び出しルカリオに飛びかかった。
「あ……!」
「ルカリオ!」
『っ!?』
突如として現れた“それ”を力の限り振り払ったルカリオは間合いを取ったが、相手は間合いをものともせずにすばやくその距離を縮めて再び飛びかかる。しかし、
「な……!?」
『エストレア様!?』
“それ”が動き出したほんの一瞬、ルカリオを庇うようにその間合いにエストレアが入り込んだ。
何もかもが突然過ぎた。アーロンが彼女に手を伸ばすのも間に合わない。彼女が怪我をしてしまう。そう思った。
「やめなさい! この方たちは違う!」
彼女が言った瞬間、彼女の鼻先まであとどれくらいだというほどの近さでピタリと動きは止まった。
アーロンもルカリオも驚きのまま動けないでいた。この方たちは違う、とエストレアがもう一度静かに言うとその黒い瞳にアーロンとルカリオを映した“それ”はおとなしく距離をとった。
夕焼けの太陽を思わせるような鮮やかなオレンジ色に黒い稲妻のような模様が走り、頭から首にかけての部分や尾はやわらかなクリーム色の毛で覆われている。
「ウインディ、このお二人は今日から城に仕える方々です。侵入者ではないの」
ウインディと呼ばれた彼は、エストレアにいさめられたことで小さく声を上げてうなだれた。その反応だけで、アーロンとルカリオはこの二人がどのような関係であるのかはすぐにわかる。
「申し訳ありません……! ルカリオ、怪我をしていませんか!?」
『わ、私は大丈夫です』
勢いよくルカリオに向き直り慌てるエストレアにルカリオは頷く。
飛びかかられたとはいえ事実怪我はしていないし、人間よりも強い体を持つためか今の何秒かの間で怪我をするほどやわではなかった。心底安心したようにエストレアは息をついた。
突然の出来事に、知らない間に息を止めていたらしいことに気づいてアーロンは深く息を吸い込んだ。
それにしても、今の反応を見るに、
「エストレア、このウインディはあなたの従者なのか?」
「わたしの、と言っていいかはわかりませんが、わたしが世話をしています」
エストレアはそっとウインディを撫でる。
「この子は鼻が利くので、城の者ではない人間はすぐにわかります。侵入者や危険の発見に一役買ってくれているのです」
「なるほど、それで……」
「はい。鼻が利きすぎるのも困った点ですが」
そこでアーロンとルカリオは納得がいった。
今日オルドラン城に来たばかりの二人には、城の匂いが馴染んでいない。エストレアが一緒にいたとはいえ、ウインディには二人が城外の者だという認識にしかならなかったのだ。謝罪なのか、ウインディは二人に対し頭を下げるように項垂れた。
「ウインディが大変失礼をいたしました……」
「気にすることはない。それだけ、城に対する忠誠が厚いということだ」
言ってから、城に、というのは語弊があるかもしれないなとアーロンは思った。
ウインディが自分たちを部外者と認識した理由はわかった。実際に彼が侵入者を発見したことも過去に何度かあったのだろう。当然、それによって大きな被害が出なかったことは城にとって多大な利点なのだろうが、彼の働きは本当に城のために行ったことなのだろうか。
先ほどの、勢いよく飛びかかっていた動きをエストレアを前にして一瞬で止めたこと。彼女にいさめられた途端にひどくうなだれたこと。
おそらくは、その厚い忠誠は城に対して向けられているのではないのだろうな。そう思って、近づいて頭を撫でるアーロンの手をウインディは拒まなかった。
「このような形ではなく、後ほどきちんとウインディを紹介するつもりでした。こんなことがあってから言うのもなんですが……ルカリオ、どうか彼と仲良くしてやっていただけませんか?」
『ええ、もちろんです』
同じく主人を持ち、そして城に仕える者としてルカリオにもウインディと親しくしない理由はなかった。先ほどの行動は彼なりに城を守ろうとしたが故のことで、いつまでもそれを引きずる必要もない。
『よろしく、ウインディ』
「ガウッ」
そっと触れた彼の体毛はふかふかとして温かかった。
そして最後に、池が近くにある離れの部屋へたどり着いた。
「ここがアーロン様とルカリオのお部屋です。最低限の物は揃えてありますが、必要なものがあれば伝えて欲しいとリーン様から言付かっておりますのでどうぞご遠慮なく」
「ありがとう。これからよろしく頼む、エストレア」
「はい、こちらこそ。それでは、わたしはここで失礼いたします。何かお困りごとがあれば、どうぞお気軽にお申し付けください」
お辞儀をした名字はウインディを連れ立って来た道を戻っていった。
部屋の入口へと歩みを進めながらアーロンはルカリオへ言葉を向けた。
「さてルカリオ。今日からここが私とお前の暮らす城だ。……修業は厳しいぞ?」
『はいっ』
「波導使いとして私が持っている全てを、お前に教えるつもりだ」
『アーロン様……!』
師の持つ全てを教えてもらえる。そのことがルカリオにとってひどく感激だった。
「波導は我にあり」
胸の位置に腕を据えて言われたその言葉に、ルカリオは頷く。
「自分の波導を、信じるのだぞ」
ルカリオの反応にアーロンもまた頷き返す。
実際の修業はまだ始まってすらいなかったが、これがルカリオにとって最初の教えとなった。
波導は我にあり。心の中でそれを復唱した。
アーロンが扉を開けて中へ進むと、そこは明るい陽の差す部屋だった。ベッドに机、棚がいくつか配置されたシンプルな部屋だ。
「必要なものがあればとエストレアは言っていたが、充分過ぎるほどだ」
『そのようですね』
これからここで暮らす。初めての場所に緊張しないわけではないが、きっと大丈夫だろう。
それが、彼ら二人がここに来た初めての日だった。