陽はまた昇る。

今日はなんだか調子がいい。木剣を振る腕に余計な力は入っていない。足の踏み込みも軽い。体全体も楽に動く。

素振りの回数増やそうかな。ああ、でもやっぱりやめよう。どこかを痛めたりしたら困る。
調子がいいことに甘えて余計なことをすると後が大変になる。エストレアは最後の一回の素振りを終えて息を吐いた。太陽はまだ昇っていない。だがエストレアは薄暗いこの時間がけっこう気に入っていた。

 

 

いつこの城に来たかは覚えていない。
ずいぶん幼い頃から城に仕えているから、いつからというのは半ばどうでもよかった。
来てすぐに、城に仕える者として必要な作法や学問を叩き込まれた。女の子ならついでにこれもどうかとダンスやら音楽やらを教えられたが、エストレアにはあまり合わなかった。

 

「あなたは繊細なことが苦手なのね」

 

教育係である先生はそう言って苦笑していた。不器用だって言えばいいのに。
あの時の自分は、我ながら察しがよかったのだと思っている。一言「お前は不器用だ」と言ってくれればいっそすがすがしいのに、遠回しに言われることが気にいらなかった。

だが、そんな不器用な自分にも合うものがあった。
何か一つ護身術でも身に付けてみてはどうか、という当時王女だったリーンの提案で始まった剣術である。これがぴったりだった。
剣の握り方や足の運びなどの作法で細かい部分はあれど、少なくとも屋内で楽器の扱いに苦労したり、音楽に合わせてステップを踏んだりするよりもよっぽど自分に合っていた。しかしながらリーンの提案だったとはいえ、女が剣をするなど野蛮という意見もしばしば聞こえることだった。

どうして。わたしが何かをするのに、他の人がどう思うかを考えないといけないの?

自分が剣をすることをどう思おうとその人の自由であって、個人の勝手だ。個人の勝手に自分が従う理由も道理もない。
それでも、その勝手はまるで暗示のようにじわじわと侵食してくる。不安が襲う。幼い子供の心が折れかけるのに時間はかからない。その折れかけが修復を遂げたのは、エストレアがちょうど十歳の頃であった。

 

「リーン、一つ覚えておきなさい」

 

女王の前でリーンが背筋を伸ばしたのを見て、後ろに控える自分も姿勢を正す。
リーンや、彼女の母親である女王は幼くして奉仕に出ているエストレアをよく気にかけてくれていたので、幼いながらも少女をリーンの傍に置くことが度々あった。

 

「あなたはこの先、国の王として義務と責任を背負うことになります。それと同時に守られる立場にもなります。国の柱となるあなたに何かがあってはいけないからです。わかりますね?」
「はい」

 

女王の言葉にリーンは頷いた。

 

「守られるより先に守れ。このことを教えておきます」

 

返事をするリーンの後ろでエストレアの頭は言葉の意味を考えていた。まだ子供だったというのもあるが、話の重要性がわからなかった。核心はなんなのか。

女王様は何を伝えようとしているのだろう?
そう思うが、厳かな空気に耐えられるかが今のエストレアには重要だった。ひとまず、女王様が話しているのだからきちんとしていようと、下がり気味だった顔を上げる。

 

「守ってもらう前に、まず自分が守る力を持ちなさい。守ってもらうだけではただの無力です。大切なものを失うだけになる」

 

あ、これはわかる。わかりやすく噛み砕かれた言葉は、今度はするりと耳に入り込んだ。

 

「エストレア、あなたも覚えておいてくれると私は嬉しいわ」
「あ……はい、女王様」

 

女王からの直接の教えは不思議なほどエストレアの頭に響いた。

そうか、守る力を持っていなくちゃいけないんだ。
自分の大切なものとはなんだろうと思考を巡らせた。個人的に思い入れのある“物”は特になかった。そもそも女王の言っていることはそんな小さい話ではないのだろうと思ったので、思考は行き詰まる。

 

「二人とも下がってよろしいですよ」

 

女王の言葉でハッとして、リーンに続いて女王の元を後にした。
斜め前を歩くリーンの表情をうかがってみる。リーン様の大切なものとはなんだろう。

 

「あの……リーン様」
「うん? なぁにエストレア」

 

くだらない好奇心で王女に質問して怒られないだろうかと、びくつきながらも意を決して訊いてみる。

 

「女王様はさっき、大切なもののために守る力を持てというようにおっしゃっていましたが……リーン様の大切なものとは何ですか?」

 

リーンは間を開けることなく口を開いた。

 

「国民よ。この国に住んでいる人たち」

 

その答えにエストレアは頭が叩かれたような錯覚にあった。

 

「わたくしたち王族は、自分が守られる前に民を守らなければならないわ。王よりも、まず民がいなくては国は成り立たないでしょう?」

 

お母様はそのことを言いたかったのよ、とリーンは続けた。
自分が首を傾げているあの間に、深いやりとりが交わされていたことにエストレアは驚いた。知らなかった。さっきの会話にそれほどの大きな意味があったとは。

 

「わたしは……女王様のお言葉を、そこまで知ることはできませんでした……」
「あら、それはそうよ」

 

王女の相槌がぐさりと胸に刺さる。自分の低能さが認められてしまったのか。慰めを望んでいたわけではなかったが、あまりにもあっさりした言葉に体は縮こまる。

 

「エストレアはまだ小さいんだもの。わからなくても落ち込む必要はないのよ?」

 

優しく頭を撫でてくれるリーンの声は耳に染み込む。どうやらこちらを傷つける意味で言ったわけではなかったらしい。

 

「それに、一番大事なことはエストレアもわかったし、覚えたでしょう?」
「……守られるより先に守れ、ですか?」
「そう。あなたはあなたの大切なものを守らなくてはだめよ。わたくしも自分の大切なものを守るわ。もちろん、そこにはエストレアもいるもの」

 

そう言ってリーンは微笑んだ。ああ、この方はどこまでも先を見ているんだ。

いずれ自分が背負う義務と責任と、自らの立場を理解している。
現女王が背負っているものも、これからリーンが背負うことになるものも、一体どれほどなのかエストレアには想像がつかない。そんな大きなものの中には自分すらも含まれているという。これが嬉しくないわけがない。

 

「わたしも、大切なものを守ります」
「ええ、そうしてちょうだい」

 

再び歩き出したリーンに少し遅れて歩く。
大切なもの、見つかった。リーンと女王が頭に浮かぶ。この国や民を愛している二人が眩しかった。
自分にも教えをくれた二人の他に、大切なものは何があるというのか。少なくとも今のエストレアには思いつかない。

二人と同じだけのものを背負うなどとおこがましいことは思わない。自分にそれを背負うだけの力も信頼もあるとは思えない。だけどせめて、手助けだけでも。
歩きながら自分の右手に視線を落とす。剣はもう慣れたが、いくつかマメができている。手に力を込めた。

わたしはわたしのできる中でお二人を守ろう。
ロータは創国以来、平和主義を貫く国だ。剣術が役に立つかはわからない。それでも何かが起こったとき、傍にいるなら自分が守れるように。もう誰が何と言おうと、揺らがない気がした。

剣を続けよう。あとは、早く大きくなりたい。
たとえ剣が使えても子供である自分は非力でどうにもできない。成熟した身体があって初めて剣を使いこなせるといっても過言ではない。
しかしこればかりは焦っても仕方がないので、成長するまでは、充分に剣術を磨いておくことにする。守る力をつけるのだ。

 

 

まだ薄暗い朝の世界で、ぼんやりと木剣をいじる。

 

「そろそろかな」

 

光の線が引かれ始めた。日課の稽古が早く終わっても、太陽が昇るこの光景を見たいがためにうだうだと時間をつぶすことも多い。

 

「綺麗すぎて逆に腹立たしいなぁ……」

 

ぽつりと漏れた独り言は、少しひねくれている。

あの日からずいぶんと時間が流れた。
自分は侍女としてリーンの傍に正式に置いてもらえることになった。女王が亡くなり、まだ若きリーンが女王に即位した。願った通り、成長して、熟練した剣が使えるようになった。

これだけの時間が過ぎようと、多くの出来事が起ころうと、他人事のように何も知らない顔をして昇る太陽はなんだか少し頭にくることがある。

 

「世の中がどうなっていようと、あなたには関係ないものね」

 

そんなことを言っても、どうにもならないとわかっているけれど。太陽に向けた小さな皮肉は、本人を前にすると余計にちっぽけに思える。

今日はとても晴れそうだ。

シーツや枕を天日干ししようかと思いつつ、すっかり明るくなった世界を歩いた。