長針と短針が重なる頃に

「リーン様、明日、半日のお休みをいただきたいのですが……お許しいただけますか?」

 

鏡越しに伺うと、リーン様は少し驚いたような顔をした。わたしが自分から休みをもらうことなど今までほとんどなかったので、その反応にも頷ける。

 

「それはもちろん構いませんよ。こう言うのはなんだけれど……珍しいですね」
「ええ、……少々野暮用で」

 

リーン様の髪をとかしながら視線を下げる。プラチナブロンドの髪は相変わらず美しい。とかし終えて化粧台からベッドへ向かう。

 

「どこかへ行くの? ああ、詮索はするべきではないですね」
「できればそうしていただけると。下々の野暮用まで把握していては、リーン様が何人いらっしゃっても足りませんから」

 

羽織っていたナイトガウンを預かりクローゼットへしまうと、リーン様がベッドへ入ったのでゆっくり布団をお掛けする。

 

「確認だけれど、午後からでよろしいのかしら?」
「はい」
「半日と言わず、一日でも構わないのですよ? 侍女にもお休みは必要でしょう」
「いえ、そういうわけには参りません。一日中護衛が離れているなど」

 

再びリーン様の傍で働くようになったのは名目上は護衛という形だが、今では完全にそれ以前の侍女という役割と同化してしまっている。たった今リーン様も侍女とおっしゃったし、どちらが主要な役割かわからない。
兵士の服装で剣を携えた侍女がいるなどという事態がすでに、普通から外れてしまっているのはわかっているけど。

 

「明かりは自分で消すから、そのままで」
「わかりました」

 

サイドチェストに本が置いてあったのでそれを読むのだろう。扉へ向かい一礼する。

 

「それでは、失礼いたします」
「お疲れさまでした。……ああ、エストレア」
「はい?」
「口にし辛いという気持ちはわかるけれど、野暮用という言い方は相手方が気の毒ですよ」

 

呼び止められた後の言葉は痛いところを突いた。
休みの用事についてわたしは何も言わなかったけれど、リーン様に隠し事は通用しないのだろうか。
言おうと思えば言っても構わないのだろうけど、わたしが勝手に口にしてはいけないような気がするのも事実だ。

 

「……反省いたします。おやすみなさいませ」
「ええ」

 

リーン様は詳細を何も知らないはずだが、見透かされている気がする。微笑んだリーン様に、なんだか気恥ずかしくなってしまい顔を上げられないまま部屋を出た。

 

 

午前の仕事を終えてから改めてリーン様に断りを入れ、半日の休みをもらった。

ちょうどウインディの昼食の時間だったので用事の前にそれをする。
ぱくぱくと食事を口にするウインディの頭を撫でる。わたしがウインディの立場だったら食事中にされるのは嫌だけど、ウインディは嫌がらないのでわたしはそのまま撫で続ける。

 

「ガウ?」
「ああ、うん。出かけるけど、ウインディが食べ終わってから行くよ」

 

ウインディは気を遣って早食いをしそうなので、急がなくていいと先に釘を刺しておく。食べ終わるのを待ってからでも大丈夫なくらいには、まだ時間はある。
いつもの通り残さず皿を綺麗にしたウインディが顔を近づけてきたので、腕を回して首の体毛に顔を埋めた。

 

「じゃあ、行ってくるね」

 

頷いたウインディを一撫でして離れると、ウインディは笑顔で送り出してくれた。

庭を通って、指定された場所である階段の下へ向かう。
余裕を持って来たと思っていたのに、すでにそこには見慣れた青に身を包んだアーロン様がいるのが見えて焦った。
もしかして、いつの間にか時間を過ぎてしまっていたのだろうかと慌てて走り出す。途中、わたしに気づいたアーロン様が顔を上げた。

 

「どうした? そんなに急いで」
「も、申し訳ありません……お待たせしてしまったようで……っ」

 

わたしの焦った様子に合点がいったのか、ああ、とつぶやく。

 

「私が来るのが早過ぎただけだ。エストレアは時間通りだから気にすることはない」

 

そうは言っても結局は待たせてしまったことには変わりないので、申し訳なさから顔を俯けてしまう。

 

「こら。せっかくの外出だ、そんな顔をするな」
「……はい」

 

まさしくその通り。これからの半日の休みはアーロン様と外出するのだ。

以前約束していた、世界のはじまりの樹へ連れて行ってくれるという約束のためだ。軍が設立されたり訓練が始まったりで、あれからもうずいぶん時間が経ってしまっていた。
もちろんわたしは忘れるわけなどなかったが、きっと果たされないまま流れてしまうだろうと思っていた。しかし先日のこと。

 

『そろそろ約束を果たさなければいけないな。近い内に時間をとれるか?』

 

アーロン様はきちんと覚えてくれていた。それがまたとても嬉しかったことは胸に秘めておく。

オルドラン城からはじまりの樹へは距離があるので、アーロン様のピジョットに乗って向かう。
ピジョットに乗ったままはじまりの樹へ直行することも可能だった。でも、わたしがロータの町からほとんど出たことが無いと言ったところ、少しだけ森の中を歩いてみることになった。

リーン様の外交に付き添って他国へ行ったことはあるが、ロータから近いような遠いようなこの辺りは来たことが無い。その分、はじまりの樹がいつもより近くてなんだかわくわくする。

 

「エストレア、疲れないか?」
「大丈夫です。わたしは仮にも兵士ですよ?」

 

素の身体能力が高いわけではないけれど、昔から剣をやっていたのと、ルカリオとの稽古、加えて軍の訓練をこなしてきたのだからそう簡単にへばることはない。
それでも少し休憩しようという言葉に従い、開けた場所に出たところで近くの岩に座る。

 

「少し待っていてくれ。何かきのみでも探してくる」
「それならわたしも、」
「それでは休憩の意味がないだろう? すぐ戻る」

 

そう言ってアーロン様は森へと入っていった。たしかに、森に慣れていないわたしが一緒にいてもあまり意味がないかもしれない。それなら大人しく待っていたほうがいい。

近くに川があるのか、水の流れる音がする。葉もさわさわと音が鳴って、この土地の自然の豊かさを物語っている。

 

「……ん?」

 

風に紛れて何か叫び声のようなものが聞こえる。
聞き間違いだろうか。だが、一度目よりもはっきり聞こえてしまっては聞き間違いなわけがない。弾かれたように立ち上がり、横道へ入る。

 

「あれは……!」

 

川のすぐ傍の土手で、三匹のデルビルがオスのニドランを攻撃している。体の小さいニドランはまだ幼いようで、三対一の状況に反撃する術もなく苦しげに鳴いている。

 

「やめて!」

 

デルビル達がこちらを見た隙に土手を滑り降りてニドランを抱き上げる。人間に触れられても暴れようとはせず、ギャウ……と体を丸めた。

邪魔をされたデルビル達は怒りの目をわたしに向ける。
自然界で起こることは人が干渉すべきではないのだろうけど、これを黙って見過ごすなど薄情もいいところだ。
囲まれた状態で空気が張り詰めるのを感じる。

飛びかかってきた一匹をかわし、申し訳ないが蹴飛ばして川へ落下させる。炎の属性を持っているせいか、水に浸かったデルビルは慌てて土手に上がり逃げ出していった。まずは、一匹。
一連の流れを見た残りの二匹は一瞬後ずさりしたが、二匹目が臆することなく飛びかかってきた。

 

「……っ!」

 

寸前、腰の剣を鞘ごと引き抜き相手へ噛ませる。そのまま地面に向けて投げ飛ばすと、目を回して気絶した。……二匹目。

 

「グル……!」

 

攻撃して無駄に傷つけることはしたくないから、できれば相手が逃げてくれると助かるのだが、勇敢なデルビルは引くことを知らないらしい。
かかってくるのなら、こちらも対抗しなければならない。野生の生き物を相手に、適当にあしらうような余裕はない。
左腕にニドランの震えが伝わる。

 

「大丈夫だよ」

 

小さな子一匹も守れず、リーン様や国を守れるわけがない。

 

「……ごめんなさい、デルビル」

 

でも、野生として生きる彼らには、わたしから攻撃を受ける理由など何一つない。ニドランを守るためとはいえ、わたしが正当防衛を語り彼らを傷つける資格はないのだ。

相手のデルビルは、まだ炎を吐き出す攻撃を使えるほどではないようだ。さすがにそのような攻撃をされるとひとたまりもない。

じり、とわたしの足が動いたのを合図にデルビルは牙をむく。
足元への攻撃を剣で防ぎ、すばやく鞘から抜いたそれを地面に突き立てる。
デルビルの鼻先すれすれにある剣は、相手が野生といえど威嚇には充分だったようだ。怯んで後ずさった相手に、少しだけ余裕が生まれる。

 

「ギャウッ!」
「え?」

 

ニドランが声を上げた瞬間、左膝に重い痛みが走った。
原因は……先ほど気絶したはずの二匹目のデルビルが、わたしの膝に牙を立てていた。

 

「っ!?」

 

とっさに思いきり足を振るとデルビルは離れたが、二対一となり形勢は逆転する。
心臓がどくどくと音を立て始める。どうしよう……どうしたらいい。大丈夫、立っていられるのだから大したことない……。

噛みつかれたという事実が頭を混乱させる。ニドランを抱く腕に力を込めるた。
だが、急に空を見上げた二匹は焦ったように突然走り去ってしまった。

 

「え……どうして……?」
「ピジョッ!」

 

上を見ると、ピジョットが急降下してきてわたしの傍に降り立った。アーロン様の、ピジョット。

 

「エストレア!」

 

後ろから聞こえる声に振り向くと同時に、左膝ががくりと曲がりその場に座り込んでしまった。
たったこれだけのことで、なんて情けないのだろう。

土手を下りてきたアーロン様は、遠くに消えていくデルビルやわたしの腕から飛び出して行ってしまったニドランを見てなんとなく状況を察したらしい。
そして、青い目が吊り上がった。この表情は見覚えがある。咄嗟に俯いた。

怒声を覚悟していたけどしかしそれは降ってこない。
どうしたのだろうかとおそるおそる見上げると、口を開きかけたアーロン様の視線は、わたしの足に移っていた。ああ、そうだった。

ブーツに空いた小さな穴と、そこから滲み出ている赤いもの。
それを見たアーロン様は慌てたようにわたしのブーツを脱がせてズボンをまくる。白いズボンにも赤い染みがついてしまっていた。
左膝にどんどん熱が集中していくようで、熱い。

腰につけた袋から布を取り出して手際よく巻いていくアーロン様は何も言わず、その表情は険しい。
怪我よりも痛みよりもそちらのほうが気になって仕方がない。

 

「アーロン様、怒らないのですか……?」

 

つい声が小さくなる。別に積極的に怒られたいとは思っていない。でも、勝手にいなくなったことや、アーロン様を呼ばなかったことなどを怒られると思っていた。
現にアーロン様だって、先ほどは確実にそうするつもりだったはずだ。アーロン様は一度だけ目を合わせ、すぐに逸らした。

 

「説教はあとだ」
「う……」
「……と言いたいが、エストレアを怒る理由がない。元はと言えばエストレアを一人にした私の過失だ」
「そんなことは……!」
「すまない」

 

絞り出すような低い声に、何も言えなくなった。わたしが黙っている間にアーロン様は止血を終える。

 

「エストレア、悪いが城へ戻るぞ」
「ええ!?」

 

思わず素で大声を上げてしまった。

 

「そんな! せっかくここまで、」
「怪我人を連れ回すわけにはいかない。傷は浅いが、城で先生に診てもらったほうがいい」

 

なんという正論だ。

 

「それに……、一雨きそうだ」

 

途端に風が強くなり、ざわざわと葉を鳴らす。
その風は雨雲を運んできたようで、いつの間にか空は暗くなっている。何かが頬に当たる。水だ。

 

「もう降って、……うわ!?」

 

わたしが言い終わる前に、ばさりと何かが被せられた。急に目の前が暗くなる。

 

「え、え?」
「女性に対して無礼だが……」
「はいっ?」
「喋ると舌を噛むぞ」
「アーロンさ、……っ!?」

 

両脇の下に手が触れたとわかってすぐに、体が浮いた。背中と膝裏に腕が回されているようで、つまりは抱え上げられたのだろう。きっとわたしが手を置いているここはアーロン様の肩だ。
突然のことにわたしが慌てている間に、柔らかい所へ下ろされる。おそらくピジョットの背中だろう。

 

「ピジョット、少し急ぎで頼む」

 

ピジョットが一声鳴くと、上昇するときの浮遊感を感じた。勢いよく体にぶつかってくる小さな粒は雨の雫だろう。
そこでようやく、自分に被せられた物の正体とその理由がわかった。

 

「ア、アーロン様! わたしは大丈夫ですから、ご自身でマントを着てください!」

 

被せられたのはアーロン様のマントだ。水がしみにくいのか、すっぽりと覆われているわたしはほとんど濡れていない。
もぞもぞと動いてようやく顔を出すと、一気に顔が濡れた。雨の雫が目に直撃して慌てて目を拭う。ずいぶん強い雨になっているらしい。アーロン様が濡れてしまう。

 

「アーロン様、お願いですから!」

 

そう言って顔を上げると、思っていた以上にアーロン様の顔が近くにあって驚いた。この抱えられている体勢ならそうなってしまうのは必然だろうけれども……。
わたしの頭にマントを被せ直すアーロン様は、案の定すでにびしょ濡れになっているのがわかる。

 

「私のほうこそ、頼むから怪我人は大人しくしていてくれ。それに、女性が体を冷やすのはよろしくないだろう?」
「ですが……!」
「どちらにしろ、ここまで濡れれば今さらマントを着てもしょうがない。エストレアを濡れないようにするために使うほうが有効的だ」

 

今日のアーロン様は、わたしに何も反論させてくれないのが恨めしい。
怪我人になってしまい迷惑をかけて、そんな自分のお守りをさせてしまっているのが申し訳ない。結局、はじまりの樹へ行くことすら叶わなかったのが悲しい。

今日出かけたことは事実。これで約束も尽きてしまった。いろいろな感情が渦巻く。
すると頭に何かが乗せられる。手が乗せられたのだとわかった。

 

「また日を改めて行こう」
「……え」
「私が交わした約束は、エストレアをはじまりの樹へ連れて行くことだ。今日はそれができていない。だから、約束はまだ有効だと思っていたいんだが、だめか?」

 

だめなわけがありません。口を突いて出そうになったその言葉をそのまま言うことは、なんだかためらわれた。

 

「い、いいえ」
「そうか」

 

アーロン様の返事は短い。
だめなわけがない、と。それを強く込めたつもりだったが、伝わったかはわからない。返事が少し嬉しそうに聞こえたのは思い込みだろうか。

わたしは顔を上げられなかった。上げてはだめだと思った。今アーロン様の顔を見たら、頭の中がぐしゃぐしゃになりそうだ。
あやすように動かされるその手はとても優しい。頭からそのままじわじわと体全体が熱くなっていくような気がする。

今すぐ、マントを取り払って冷たい雨に濡れてしまいたかった。