「さ、マスター、遠慮しなくていいからね」
「うん、ありがとう」
様々な種類の料理が並ぶテーブルはとても華やかだ。
「今日は俺が負けちゃったからね、ドライゼも遠慮しないで」
「当然だ、するつもりはない」
「はは、手厳しいね」
エルメとドライゼが行った、実技訓練体力三番勝負で今回はドライゼが勝ったらしい。
その勝負の敗者は勝者に食事を奢るという取り決めだそうで、以前にエルメが勝った時はドライゼが奢る側だった。
その時のドライゼ曰く「あなたが同席してくれた方が、俺としても気が休まる」とのことで、私も誘われて店に来ていたのだ。
今回負けたのはエルメだったけれど、前回のように私も食事へ誘われた。
私は勝負に関して完全に蚊帳の外にいるので、また同席していいのかと訊ねてみたけれど「だって、勝ち誇ったドライゼとふたりでいるより、君もいてくれたほうがいいからね」とのことで、苦笑しながら了承した。
「それでは、乾杯だ」
「はいはい」
「かんぱーい」
ドライゼの音頭によって三つのグラスが音を立てる。エルメとドライゼはビールだけれど、私はノンアルコールを口に運んだ。
本来、ドイツ支部で役職についているふたりは羽振りがよく、私の財布ではきっと頼まないお高めな料理もぽんぽんと注文してしまう。
エルメ自身はあまり味に関しては頓着していないためなのか、ほら遠慮しないで、とむしろ私の皿にその料理を取り分けるので、私は遠慮を表現する暇もないままおいしい料理を楽しみ続けている。
「これは前も食べたけど、すごくおいしいね」
「よかった。ドライゼ、マスターはこれが気に入ったみたいだよ。次回も頼もう」
「そうか、覚えておこう」
次回、ということはもうすでにまた三番勝負をするつもりらしいふたりに笑いがこぼれる。
エルメは細身にも思えるけれど、見た目に反して体力訓練は貴銃士特別クラスでも常にトップクラスを誇っているらしい。そうでなければドライゼと体力勝負なんてそもそもしないか、と思い直した。
「マスター、次の飲み物は何を頼む?」
エルメがメニュー表を差し出してきたので、またノンアルコールのものを告げる。エルメは自分とドライゼの分のビールと、私のドリンクを注文してくれる。
「今日は、前みたいにパフォーマンスはやらないのかな?」
このお店は奥が舞台になっていて、以前来た時はフラメンコのパフォーマンスが披露されていた。
「以前よりもまだ早い時間だからね。いずれやるんじゃないかな?」
それまでにドライゼの酒癖が発動するようにしておこうか? とエルメがひそひそと私に言ってくるけれど、やめておこうよと笑って止めておいた。
「エルメ、人の前で密談とはどういう了見だ?」
「ん? 俺とマスターだけの内緒話だけど?」
「ふむ……マスターの様子を見るに特別やましいことではなさそうだ」
「お、おっしゃる通り」
しれっとエルメに巻き込まれて焦ったけれど、ドライゼが話のわかるひとで助かった。
しばらくしてからドライゼが席を立った。向かった先がお手洗いだったので、私もそれ以上は気にせず食事と会話を続けていた。
「そういえば……俺は、マスターが何を好きかとか、あんまり知らないな」
「あー、言われてみればそういうの、改めて話したことなかったね」
「じゃあ、俺が今から質問するから、君のことを教えてよ」
「もちろん」
エルメからの質問に、好きなものを答えていく。その度にエルメは頷いて、嬉しそうに次の質問をしてきてくれた。
食べ物はあれが好き。飲み物はこれが好き。授業はこの科目が好きで、得意な訓練はこれ。色はなに色が好き。動物はこれが好き。
「マスターの好きなものが知れるのは楽しいね」
「よかった。エルメは何が好きなの?」
今度は私から聞いてみると、エルメは少し首をひねった。
「うーん……そう言われると、すぐに思いつくものは少ないね」
「コーヒーは好きだよね?」
「そうだね。ナマエもよく淹れてくれるし、君が淹れたコーヒーは好きだよ」
自分のことを『考える鉄』だと、人間扱いも不要だとさえ言うエルメからしたら、もしかしたら何かに対する好き嫌いというのはあまり重要ではないのかもしれないと、ふと思った。
そう思うと少し寂しいような気持ちも湧くけれど、少なくとも私が淹れるコーヒーは好きでいてくれているらしい。それがわかっただけでもよかった。
「さて、俺はちょっと行ってくるから少し待っていて。ドライゼがトイレで寝ていたりしたら困るしね」
徐にエルメは椅子から立ち上がり、お手洗いのほうへ向かっていった。たしかにドライゼが酔ってトイレで寝てしまっていたらいろいろと大変だ。もしそうだったことを考えて、エルメは様子を見に行ったのだろう。
テーブルに残された私は、エルメとドライゼの席から彼らの荷物を回収して自分の肩に下げた。考えたくはないけど、物取りにでも遭ったりしては困るのだから。
「──!」
「え?」
急に、目の前に綺麗な色のドリンクが入ったグラスが置かれた。見上げてみると、ドリンクを渡してきたのは全く知らない男性だった。
「¡Hermana! ¿Cómo estás? 」
にこやかに手を挙げて男性は何かを言った。けれども何と言ったのかわからない。
英語ではない言語だというのはわかったけれど、言葉の意味が理解できない。どうやら響き的にスペイン語のようだとわかっても、私はスペイン語を聞き取れないし話せない。
「¿Puedo invitarute a una copa?」
困惑している私をよそに、男性はお構いなしに言葉を続ける。
英語を一切話さないところを見るに、よそから来た観光の人なのかもしれない。そんなことだけ予想できても今は意味がないけれど。
それでも、テーブルに置かれたドリンクはおそらくアルコールだ。グラスを男性のほうへ押しやる。
「ごめんなさい。いらない」
英語が伝わっているかはわからないけど、黙っているわけにもいかない。せめて拒否する意思を見せてみると、男性はきょとんした顔をする。
効いたか、と思ったけれど、男性はなぜかますます熱が入ったように笑顔で話しかけてくる。とうとう空いてるテーブルの椅子を引っ張り、私の横に座り出してしまった。なぜか状況が悪化した。
「Te ataqué porque se me descompuso el freno de mi corazón.」
どうするのが正解なのかわからなくなり、もうエルメとドライゼを待たずに店を出たほうがいいかとすら思った。いや、いっそトイレへ逃げるべきか。
椅子から立ち上がると、男性は慌てたように私の腕を掴んできた。いきなりの接触にぞわりと鳥肌が立つ。
この人を引き離すのは簡単だ。腕をひねり上げるなり、蹴りを入れるなりしてしまえばいい。けれど騒ぎを起こしたくはない。
もう力任せに振り払ってやろうとした時、男性が驚いたように声を上げたと思うと私の腕は解放されていた。肩に手が置かれ引き寄せられるように体が揺れると、何かにぶつかった。
「大丈夫かい、ナマエ」
ぶつかった先にいたのはエルメだった。どうやらエルメが男性の腕を掴み、私から離してくれたのを理解する。
「この人は俺の同伴者だけど、何か用かな?」
「あ……、エルメ、この人たぶんスペイン語で話してるみたいで……」
「……ふぅん、そう」
エルメは男性の腕からパッと手を離すと、私の顔を覗き込んでくる。
「Eres la chica más guapa del mundo.」
「え?」
突然、エルメも私にわからない言葉で何かを言い出したことに、いよいよ頭が混乱し出した。
「Siempre pienso en ti. ¡Oye! Mi amor solo quería decirte que te quiero y que ers muy importante para mí.」
何かを言い終えたエルメは綺麗に微笑むけれど、私には言葉も状況もわからなくて明らかに困惑しているとエルメならわかっているだろうに。
そういえばこっちはどうなったかと男性のほうへ目を移すと、なぜか男性はあんぐりと口を開けている。悔しそうに席を立つと、そのまま離れていってしまった。
「あ……よかった」
ほっと息を吐くと、エルメの手が肩から離れていった。
「ごめんねナマエ、嫌な思いをさせたね」
「ううん、大丈夫だけど……、さっきは何て言ったの?」
エルメがスペイン語もそれなりにわかるというのは知っていた。だからさっきもスペイン語で何かを言ったのだろう。
でも、男性に向けてではなく私に向けて喋っていたというのがよくわからないのだ。あの状況でスペイン語を話すなら、男性に向けてでなくてはおかしいのに。
「それはあとでね」
ドライゼ、とエルメが後ろへ呼びかけるとちょうどドライゼも戻って来てくれた。
「どうした、何か問題が発生したようだが」
「大問題だよ。ナマエが男に絡まれた」
「なんだと……! すまないマスター、申し訳ないことをした」
「いや、ドライゼが悪いわけじゃないから大丈夫だよ……!」
「今日はもう帰ろうか。迷惑な客がいるみたいだからね」
エルメの言葉に頷き、私が預かっていたふたりの荷物を返す。
上着や帽子を身に着け直したふたりの後に付いていこうとすると、近くのテーブルにいた女性客が私に声をかけてきた。
「あなたのお連れさん、クールそうなのに見かけによらず情熱的なのね」
「え?」
「もう、うらやましいお嬢さんね!」
女性は楽しそうに笑って、バイバイと手を振った。どういうことか訊きたかったけど、エルメとドライゼに呼ばれてしまったので女性には会釈をすることしかできなかった。
店を出て士官学校への道を歩く。今日はドライゼも酔って寝てしまったわけではないので、彼を運ぶこともないエルメは私の隣を歩いている。
「ねぇエルメ、さっきはなんて言ったの?」
疑問が解消されていないのでもう一度訊ねてみると、エルメはわざとらしく首を傾げた。
「さぁ? なんて言ったんだろうね」
「ええ、教えてくれないのか……」
少なくとも、あの男性が立ち去るような意味を持っていたというのはわかる。
しかし、単語も何も聞き取れなかったので音としても覚えていない。エルメが教えてくれないのならば完全にお手上げだった。
最後にお店で話した女性客はスペイン語がわかる人だったようだから、エルメがなんと言っていたのかもわかったのだろう。
首をひねりながら考え、ため息をついて諦めた私を見てエルメはおかしそうに笑った。
「それだけ熱心に考えてくれるとは思わなかったよ」
「だって気になるから」
「マスターは何か悩んでいるのか?」
「エルメがさっきスペイン語で何か言ってて、その意味が気になってるんだけど教えてくれなくて」
「なんだエルメ、意味を教えられないようなことを言ったのか?」
「まさか。悪い意味は一切ないよ。そこは安心して」
なら教えてやればいいだろう、とドライゼは言うけどエルメはうまくはぐらかしたので会話は終わってしまった。
「……、エルメって情熱的なひと?」
ふと思いついたことを訊いてみた。
あの女性はエルメを、見かけによらず情熱的なのね、と言っていた。そして私を、うらやましいお嬢さんだとも言っていた。私に対して、何か情熱的と受け取れることを言ったということだろうか。
いや、そこがわからないのだから、状況からの推測だけではまったく解決できないけど。
私の質問に、エルメは少し驚いたように見えた。けれども考える素振りの後で、微笑みながら口を開いた。
「どうかな? 好きなものに対してはそうかもしれないね」
好きなものに対しては情熱的。たしかに誰しもそういう部分はあるだろう。
結局何と言っていたのかはわからないままだったけれど、エルメの新しい部分を知れたのでそれでいいかと思うことにした。
Eres la chica más guapa del mundo.
(君は世界一綺麗な人だね)
Siempre pienso en ti.
(いつも君のことを考えているよ)
¡Oye! Mi amor solo quería decirte que te quiero y que ers muy importante para mí.
(ねぇ! 俺の愛しい人、君は俺のとても大切な人、愛してるよ。ただそれを言いたかったんだ)