学科棟の近くでシャルルヴィルを見つけた。
彼自身は何をしているというわけでもなさそうだったけれど、つい反射的に声を出して呼んでいた。
「シャルルヴィル!」
少し距離があったから、大きな声になった。するとシャルルヴィルの体は大きく震えたように見えて、こちらを振り返った彼はどうしてか顔色がよくないようにすら見えた。
その様子に驚いて、彼に振りかけていた手を下ろして急いで駆け寄った。
「ナマエ、Bonjour.」
「シャルルヴィル、大丈夫……!? 具合悪い?」
「え、ううん、そんなことないよ。元気だよ」
シャルルヴィルは穏やかに笑ったけれど、少しだけ言いづらそうに目を伏せた。
「ごめんね、その……、大きい声が、苦手で。少しだけびっくりしたんだ」
それはどうしてだろうと思考を巡らせかけたけれど、私の頭はこの瞬間だけ異常なほどすぐに答えを導き出していた。
フランスにいた頃の影響だと思った。
より正確に言うならば以前のマスターであるロジェさんからの、厳しい言葉の数々があったからではないかと、そう思った。
今でこそ、マスターではなくなったロジェさんはかつての穏やかさを取り戻している。
けれどシャルルヴィルがまだリリエンフェルト家の貴銃士だった頃は、随分と怖い印象だったというのは私も覚えている。
彼の私兵と戦闘になりかけたほどだ。あの時のロジェさんは、とても正気ではなかったように思う。
だからこそ、シャルルヴィルは苦しんでいた。
絶対高貴になれない自分に悩み、人々をだまして嘘をついていることに悩み、日に日に変貌していくロジェさんに悩んでいた。
「あ……そうだったんだ。ごめん、私いま、」
「ううん、マスターだってわかったから、大丈夫だったよ」
シャルルヴィルを呼んだ私は、決して叫んだり怒鳴ったりしたわけではなかった。
でもシャルルヴィルにとっては、大きな声で呼ばれるだけで体を震わせるほど、精神的に響いてしまう要因だったのだろう。
大きい声が苦手だという理由を直接問いかけはしなかった。私の思う理由が正しいかはわからない。でもシャルルヴィルがつらそうに見えただけで、訊かない理由は充分だった。
「でも……、ごめんね。怖かったでしょう」
私の言葉に、シャルルヴィルはハッとしたように私を見て、やがて静かに口を開いた。
「不安に、なるんだ。ボクはたくさんの人を騙してきた……。それなのに、今は、ここでこうやって普通に過ごしていて、いいのかなって……」
シャルルヴィルは俯いてしまい、顔を上げなくなった。
彼の不安はもっともなことに違いなかった。
本人が自ら進んで行ったことではない。不本意なものであったとはいえ、彼はそれを自分の罪だとして背負おうとしている。それだけ、責任を感じているのだろう。
「……怖いんだ。ボクは、責められて当然なんだって、思っていても……でも、責められることが、怖くて、仕方ないんだ」
シャルルヴィルの声は震えていた。
貴銃士たちの誰も、シャルルヴィルを責めたりなんてしていない。事情をわかっている者たちからすればなおのこと、彼は被害者でしかないのだと知っている。
シャルルヴィルの責任感からくる不安が。以前のマスターであるロジェさんから植え付けられてしまった恐怖が、まだ彼を捕らえて離さないのだろうと思えた。
貴銃士である彼らにも『心』というものがあるのなら。それなら、そう簡単に過去から解放されないことも当たり前なのだろう。
「私も、ここにいる人たちも、誰もシャルルヴィルを責めないよ。怒ったりしないよ。……もしかして、誰かから嫌なこと言われたりした?」
私の問いかけにシャルルヴィルは首を横に振った。
誰かから何かを言われたわけじゃない。そうなるとやはり、彼は捕らわれている恐怖によって、不安を抱いてしまっているのだ。
「シャルルヴィル」
呼びかけても彼は顔を上げられず、わずかに肩が震えるだけだった。
私にできることは、少ない。
私はそっと近づいて、彼の体に腕を回した。
それにはさすがに驚いたのか、戸惑ったように私の名前を呼んだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
自分の肩に彼の頭を押し付けるようにしながら、柔らかな髪を撫でた。
「私はシャルルヴィルを責めたりしない。でも罪悪感があって、君が誰かからの許しを求めているなら、私が君を許しているからね」
硬くなっていたシャルルヴィルの体は、一瞬だけ呼吸すら聞こえないような気がした。
「……っ、ぅ……ぁ」
けれど次の瞬間には、静かな嗚咽が耳元で聞こえる。私の体にシャルルヴィルの腕が回り、強く抱きしめられる。
「あの時の、ボクは、……何も、できなかった。絶対高貴になることも、自分の力で、誰かを助けることも……っ」
呼吸が詰まりそうな嗚咽の中でも、シャルルヴィルは言葉を続けた。
「でも今は……誰かの助けに、なれてるって……、マスターの、君の役に立ててるって、思いたくて……!」
「うん。間違ってない。なにも間違ってないよ」
少しの静寂のあとで「うん……」と短く返事が聞こえたのを最後に、しばらくシャルルヴィルは静かに泣いていた。私は黙って彼の背をさすることしかできなかった。
私にできることは、少ない。今だって、たいしたことも言えないままだ。
下手な慰めの言葉は逆効果になることもある。だから今の私ができることは、シャルルヴィル自身と彼の不安ごとすべてを肯定してあげることが精一杯だった。
もっと早く気付いてあげたかった。フランスでの出来事を乗り越え、絶対高貴にも目覚めたシャルルヴィルはすっかり元気になったと思ってしまっていた。
実際、当時よりは元気になっていたと思う。でも全てを受け止めて、過去のことだと流し去るのはそんなに簡単なことではない。
人の姿を得て、人と同じように言葉を紡いで、人と同じように生活という営みを行う彼ら貴銃士にだって、つらく悲しいと思うことがある。
つらく悲しいことを、誰にでも言えるわけじゃない。つらくて悲しくても、押し込めてひとりで抱えてしまうことだってする。誰にも言えないことだってある。打ち明けられないことだってある。
それを証明するかのように、私はシャルルヴィルの不安に気づいてあげられなかった。
貴銃士のマスターだから彼らが私にすべてを打ち明けてくれるなんて、さすがにそこまで自惚れてはいなかったけれど。
私はきっと自分で思うより、悲しいくらい、彼らのことを、シャルルヴィルのことを知らない。
腕の力が緩んだのを合図に、私はゆっくりシャルルヴィルから腕を離した。
シャルルヴィルの目元も鼻も赤くなってしまっていて、ポケットからハンカチを取り出して彼の顔に当てた。
「……ごめんね、ナマエ」
「謝ること、何もしてないよ?」
「……嫌じゃ、なかった? 体は、痛くなかった?」
「全然嫌じゃなかったし、そんなにやわじゃないよ」
「あはは、さすがだなぁ」
笑いながらハンカチごと私の手を取ったシャルルヴィルは、自分の頬に私の手を押し当てて目を閉じる。
「Merci, mon trésor.」
お礼を言われたのは理解できたけどフランス語がわからないから、なんと言われたのかは正確にはわからなかった。
少しだけでも、元気が戻っただろうか。
「食堂行って、ケーキとか食べる?」
「ん? うーん、ごめん、この顔で行くのはちょっと……」
「そっか。じゃあ一緒に少し歩くのはどうかな」
「うん、いいね」
シャルルヴィルは私の手を取ったまま離す様子がなかった。
離して欲しいというのもなんとなくおかしい気がして、ハンカチをポケットにしまいそのまま手を繋いで歩き出す。
「……、ごめんね、シャルルヴィル」
「え?」
突然の私の謝罪に、シャルルヴィルは心底不思議そうな声を出した。
「早く、気付いてあげられなくて」
「あ……それは、ボクが言わなかったから」
「……私、何もしてあげられなかったよ」
「ううん」
繋がれている手に力がこもった。
「君は、もう何度もボクのことを助けてくれてるんだ。君にそのつもりがなくても、ボクは勝手に助けられてるよ。……それなのにボクは、君に何も返せていないし、何もしてあげられてないと思ってた」
「そんな! そんなことないよ」
「だからほら、お互い様でしょ?」
そう言われて、言われてみるとたしかにお互い様だと納得できた。
「……うん、そうだね」
私が頷くと、シャルルヴィルは納得したように笑って前を向いた。
シャルルヴィルの言葉をそのまま受け取っていいのなら、私は自分が思うよりもシャルルヴィルの助けになれていたらしい。
それは逆も言えることで、シャルルヴィルが思うよりずっと、私は彼に助けてもらっている。
「マスターは、悲しくなる時はある?」
「え? うん、それはもちろん。たくさんあるよ」
作戦で足を引っ張ってしまったとか、貴銃士のみんなに前線を任せているくせに自分は何も戦えていないだとか、無茶をしてしまって叱責されたとか。いろいろな理由で悲しくなる時はあるものだ。
そっか、と相槌を打ったシャルルヴィルはつないだ手を軽く揺らした。
「ナマエさえよければ、悲しい時はボクを呼んで。あ、でも呼ばれなくてもボクから声をかけるかも」
さっきのナマエみたいに。
そう言われて、自然と顔は綻んだ。
「ありがとう。じゃあその時はよろしくね」
「まっかせて!」
張り切ったように微笑むシャルルヴィルは、あ、と思い出したように声を潜めた。
「ボクが泣いたってこと、他の人にはナイショにしておいてね」
「言わないよ。シャルルヴィルも、私が悲しい時のことはみんなに言わないでてくれる?」
「うん、約束するよ」
本当は、悲しくなることなんてないほうがいいに決まっている。私もシャルルヴィルもそれはわかっている。
でも悲しい時に一緒に悲しんでくれるひと、泣くのが許される場所があるというだけで、私たちはお互いに強くあれるような気がした。
隣を歩いているだけで。手を繋いでいるだけで。
お互いがお互いにとって特別であるような気がした。