月が昇っても、

わたしは庭をうろうろと歩いていた。
夕方の食事の時間なのにウインディが来ないのだ。食事の時間と場所は決まっていて、いつもウインディはきちんとその時間にいる。
でも最近はその習慣はあまり守られていなかった。特に夜は。遅れてくることが増え、こうして城の敷地内を探しに出る始末だ。一体どうしたのだろうか。

今日の朝は珍しく寝坊してしまい、日課の朝稽古をする時間がなかった。その分を取り戻すため、ウインディに食事を出すついでにやってしまおうと考えていた。そのために着替えてから来たのに、当のウインディがいない。

いつもの場所に食事を置いたままにしておいてもかまわないけど、ウインディがいつ食べるのかわからないので、そうなると皿の回収に手間がかかる。こうやって探してる時点で、手間も何もあったものじゃないけど。
小さく息をついた。広い敷地内を探すのは骨が折れる。

 

「ウインディ? どこー?」

 

先ほどから何度言ったかわからない探し文句。
どうせ虚しく響くだけ、と思っていたけど今度は違った。呼ばれたから来たのか偶然来たのか、前方からウインディが走り寄ってきたのだ。

 

「ウインディ! どこにいたの?」
「ガウッ…」

 

本人もわかっているようで、ごめんなさいと低い声を漏らしたが、急に姿勢を低くしたと思ったら頭ですくい上げるようにわたしを持ち上げた。やわらかな体毛はそのままするりとわたしを背中へ運ぶ。

 

「うわっ……びっくりした。どうしたの?」
「ガウッ!」
「え、ちょっと待っ……!」

 

掴まってと言うが早いか来た道を走り出すウインディに、わたしは慌てて毛を掴んだ。言われたとおりにしたというよりは、背中から落ちないように反射的にとった行動だった。

 

「だめだよウインディ。あなたに乗って敷地内を走ったらだめだって、執事長から言われてるんだから」

 

このような指示が出されているのは当然、わたしに前科があるからだ。幼い頃の話だけれど。
あの頃のわたしは本当に子供だったので、それならばれないようにやるという方向に知恵を働かせていた。さすがに成長した今は、きちんと指示を守りそのようなことはしていない。それはウインディもわかっているはずなのに、急にどうしたのだろう。
密かに禁止事項を犯して背中に乗せられ、連れてこられたのは闘技場だった。

 

「ここに何かあるの?」

 

頷いたウインディはわたしを乗せたまま入口へ入る。

 

「あ……ルカリオ?」
『エストレア様……!?』

 

そこには意外にも見知った顔がいて、わたしもルカリオも両方が驚いた。
精神を集中させるように座っていたルカリオはわたしを見てすばやく立ち上がった。座ったままでかまわないのに。
でも、おそらくは目上の者がいる前で座っていられないという考えでの行動だろうし、わたし自身もルカリオの立場ならきっと同じことをするのは目に見えている。
ルカリオから目上であると見られるのは、嬉しいやら気後れするやら。

 

『なぜこちらに?』
「急にウインディに連れてこられたのです。理由はわからないけど……」

 

返事をしつつウインディの背中から降りた。

 

『あの、エストレア様。今さらな気もしますが、私に敬語で話す必要はございません』
「え、ですが……」

 

突然の提案に戸惑う。
一応こちらにもわきまえるべきものはあるけど、わたしがそうすることで気後れするのはルカリオにとっても同じらしい。気後れ者同士で遠慮しあっていても埒が明かないかと思って小さく笑う。
気後れはするけれど、ここはどちらかが譲歩しなければ。

 

「わかった。じゃあ、そうさせてもらうね」
『はいっ』

 

砕けた口調にルカリオは嬉しそうに笑う。もしかしたら、敬語だったことは壁を作っているように見られただろうか。使い分けが必要だったかもしれないと反省した。

 

『エストレア様、剣の日課は朝に行っているとお聞きしましたが……?』

 

普段と違う稽古用の服でいたせいだろう。ルカリオは不思議そうな顔をした。
アーロン様が言ったのだろうか。わたしの日課はアーロン様に知られている。それを通じてルカリオが知っていてもおかしくはないので、突然にそのことに触れられても驚かなかった。

 

「恥ずかしながら寝坊して、今朝はできなかったの。だからこれからやろうと思っていたんだけど、ウインディが」

 

ここに連れてきたの、という最後は省略した。じろりと彼を見ると、ウインディはそっぽを向いて目を逸らした。ちょっと待って、あなたはいつの間にそんなごまかし方を覚えたの。
相変わらずここに連れてこられた意図はわからなかったけど、視線を戻すとルカリオの姿が目に入る。そういえば。

 

「ルカリオ、日頃ウインディと組み手をしていると聞いているけど」

 

アーロン様たちにお茶を持って行くときも、その時にルカリオがウインディと組み手だと言っていないことが大半なので、きっとすでに日常化している。
おそらく今、この時間もそうしていたのだろう。ウインディが食事の時間に遅れる理由がわかった気がした。

 

『はい。彼は良い相手になってくれています』
「ということは、体術は得意ということ?」
『ええ、まあ。それなりにできると自負はしております』
「わたしに指南してもらえない?」
『え!?』

 

ルカリオが驚くのは予想通りだった。

 

『何をおっしゃいます! 私がエストレア様に教えられることなど何も……』
「そんなことないよ。格闘と剣じゃ分野が違うでしょう?」

 

剣術は剣、もしくはそれに代わるものがあって初めて成り立つ。裏を返せば武器となるものがなければ何の意味もない。
でもそれではだめだ。意味がない。自分の今までを否定はしない。だけどいざとなった時、武器がなければ何もできないような自分でいてはだめなのだ。

 

「お願いします、ルカリオ」

 

深く頭を下げた。ルカリオが慌てるように息を飲んだのがわかる。

 

『エストレア様、そのようなことをなさらないでください……!』
「頼む立場だもの、当然のことをしているだけ」

 

地面と自分のつま先を見続ける。

 

『……わかりました。私などの技術が役に立つのでしたら、誠意を持ってお教えいたします。どうか頭をお上げください』

 

ルカリオは困ったように笑っていた。止めても無駄だとわかったのだろう。

 

「ありがとう! よろしくご指導お願いします」
『私に出来得る限りのことを』

 

再び頭を下げる。今度はルカリオも止めようとはせず、了承の意味を込めてか彼も丁寧に礼をした。
お互いに正面に向き直ると、今まで様子を見守っていたウインディが顔を寄せてきたのでそっと撫でてやる。ウインディはこれを見越してわたしを連れてきたのかもしれない。そうわかるととても嬉しい。良い指導者を教えてくれた。

 

「さっそく今日から始めても?」
『もうじき暗くなりますが、エストレア様がよろしいのであれば』
「うん、大丈夫」

 

とはいえ、リーン様が就寝する時間には一度戻らなければならないと伝えると、ではその時間までに今日は終わりましょうと言ってくれた。
こちらに合わせて融通をきかせてくれることはとてもありがたい反面、教えてくれるルカリオにそこまでさせるのは申し訳なくなる。でも、それ以前にわたしは侍女なのだから仕方がない。

これで新しく夜の日課が増えた。剣を夜にやるという埋め合わせが効かなくなる分、明日からは今まで以上に寝過ごし厳禁だ。そもそも今日の寝坊が珍しい方だが、気持ち的にも。
忙しくなるかなぁと思ったが、自分で決めたことだ。きっと、後悔はしない。