最初から答えはあったけど

逃げ出したのがよくなかったのか。それともそれ以前の態度がよくなかったのか。言葉が悪かったのか。何が彼の癇に障ったのかはもはやわからなかった。

 

「マスター!」

 

後ろから聞こえる声はもうすぐそこまで迫っていた。単純な駆けっこで逃げ切れるわけがないとはわかっていたけれど、私は自分で止まるわけにはいかなかった。
止まったら、まるで待っているようで嫌だった。追いつかれるとわかっていても走り続けなくてはいけなかった。抗い続けなくては。

しかしわかっている通りの結果となった。
後ろから迫る声と気配は完全に私を捕らえた。腕を掴まれる。しかし最後まで抗おうとせめて力いっぱい振りほどこうとする。
それも無駄な抵抗だった。さすがに暴れるつもりはなかったものの、相手はそれを懸念したのか私はそのまま壁に押し付けられる形になった。

正面を向くことができず、下を向いてぎゅっと目をつむる。私の腕を掴んだまま、相手は上がった息を整えることもせずに口を開いた。

 

「なんで、そこまで避けるんすか……っ」

 

相手の、ケンタッキーの声は苦しそうで、それが走ったせいなのか別の理由なのかはわからない。

 

「マスターのご迷惑だったんなら謝ります。けど、何もそこまで露骨に避けなくてもいいんじゃないっすか?」

 

今、ケンタッキーはどんな顔をしているだろう。声音からしてきっと不機嫌そうに眉根を寄せている。
三日ほど前だった。ケンタッキーが私に好意を伝えてきたのは。

 

『あなたのことが好きです』

 

今までも、尊敬とか信頼とかの意味で好かれているのは知っていた。しかし突然に情愛の意味で告げられた言葉に、私はひどく動揺したのだ。
少し考えさせて。そう言ってその場を逃れた。それ以降、ケンタッキーとは顔を合わせることができずに彼を避けた。考えるまでもなく、きっとそれが今を引き起こした。

 

「……自分のこと嫌いってんならそれでもいいです。責めるつもりはないんで。けど、それならそれではっきり言って欲しいっす」

 

それはそうだ。完全に私が悪い。
彼が中途半端を許せない性格なのはとうに知っている。告げられた好意に対して白黒つけずに避けていた私が悪いに決まっていた。
ケンタッキーが小さく息を吐く。

 

「イエスかノーで答えてくれますか。すぐ終わるんで」

 

掴まれていた腕の力が緩む。

 

「自分のこと、嫌いっすか」

 

私はひどい奴だ。彼にこんなことを言わせてしまった。だがここまで来たらもう逃げられない。答えなくてはいけない。
目を開ける。その先には、自分とケンタッキーの足が見える。
首を横に振った。

 

「……嫌いじゃないよ。そんなわけないでしょ」

 

少しだけ顔を上げる。正面から見ることはできない。ぽかんと空いた彼の口元が見えるだけだ。
今でこそ不可思議な能力を得たマスターなどという役目もあるが、それ以前に、私はレジスタンス所属の人間だ。
組織や基地内での恋愛が禁止されているわけではない。だけども私は、現を抜かすわけにはいかないと思っていた。

ケンタッキーが人ではないからとか、そんなことは重要ではないし理由でもない。
この激動の時代で、誰かを愛して、いつか唐突にそれを失う日が来るのではないか。
それが怖かったのだ。ならば最初からそういう存在はいなくていい。そう思って、蓋をした。

愛する勇気がなかった。覚悟も、余裕も。だからどうしたらいいかわからなかった。
俯いて感情のままに吐露していると、そっと腕が引かれた。壁から離れた私の背中には腕が回り、ピンク色のベストの肩口に口がぶつかった。

 

「……なるほど、って感じっすね。さすが自分が尊敬するマスターっつーか、なんつーか」

 

ゆっくりと髪が撫でられる。

 

「大事なもの失くすってのは、怖いもんっすよね。でも自分は、こんな時代だからこそ、誰かのために頑張りたいんすよ。自分にとってはそれがマスターで、……今は〝マスターのために〟って意味にちょっと付け足されてますけど。でもまぁ、」

 

ケンタッキーは一度言葉を切った。

 

「マスターから嫌われてるわけじゃないんなら、超嬉しいっすね!」

 

耳の近くで聞こえる明るい声に、つい涙がこぼれた。
答えも出せないまま、相変わらず彼にひどいことをしているのにどうしてこんなに優しいのだろう。

 

「……ごめんね」
「あー……。それは、どういう意味の……」
「避けたりとか、逃げたりしたこと……」
「そっちっすか。全然いいんすよ。自分も、ちょっと一方的過ぎました。すんません」

 

嫌いではない、と言った。
またずるい言い方をした。答えなんて決まっているというのに。
だけどもまだ、口に出すには覚悟や勇気が固まらない。きっとまだ少し時間がかかる。
ケンタッキーの背中に、縋るように腕を回した。予想外だったのか彼の体が少し硬くなる。

 

「ごめん……もう少しだけ、時間を貰ってもいい?」

 

今度はちゃんと答えを出す。自分の口で言う。
しかし今は、こうして抱きしめ返すことが精一杯の答えだ。すると途端に、今以上の力でぎゅうっと抱きしめられた。

 

「当ったり前じゃないすか! 絶対マスターからいい返事もらえるように、それまでに自分、もっと頑張るんで!」

 

その優しさに救われて、少しの涙と共に笑いがこぼれる。
まったくもって、そういうケンタッキーのことが私はとても大好きだ。