愛溢れる救世主

言うつもりなんて微塵もなかった。意識してそういう風に思っていたわけでもなかった。

 

「……逃げたい」

 

口をついて出た言葉が自分の耳に届く。聞こえてから気が付いた。私は今、何を言った。
はっとして顔を上げる。衛生室の掃除を手伝ってくれていたシャルルが、驚いたようにこちらを見ていた。当然、彼にも聞こえてしまっていただろう。
一気に罪悪感と恐怖が押し寄せた。私は今、なんてことを口にしてしまったのだ。
よりにもよって、ベスと共に最初に呼び起こした彼の前で。
私が『マスター』になってから、最初からずっと戦ってくれているシャルルの前で。

彼らがどれだけ懸命に戦ってくれているかなど明白なのに。それなのにマスターである私が、どうして彼らの前で逃げたいなどと言えるのだ。しかしもう遅い。私は確かに言ってしまった。
非難の言葉を恐れ、思わず「ごめん、なんでもない」と言い訳をする。
するとシャルルは「そっか」と笑った。そこで終わりかと思い、わずかに安堵した。

 

「それじゃあ、俺と一緒に逃げちゃおうか」

 

しかし、続いたシャルルの言葉に呆気にとられた。驚きのあまり声が出ない。シャルルはベッドから外したシーツを籠に入れると、私のほうへ近づいてきた。

 

「マスターはどこに行きたい? よかったら俺の祖国とかどう?」

 

カルテの入ったファイルを私の手から取り、棚へとしまう。

 

「俺、あそこに行ってみたいんだよね。マスターと行けたらすごく楽しいだろうなぁ。あ、他にも行きたいとこの目星はあるんだけどね」

 

言葉の出ない私をよそに、シャルルはいつも通りの明るさで話を続けている。まるで旅行の計画でも立てるように。

 

「あ、の……シャルル」
「うん?」
「怒らないの……?」

 

ようやくまともな返事をした。
逃げたいなんて言ったのに。シャルルを始め、貴銃士たちに顔向けできないような最低なことを言ってしまったのに。マスターに相応しくないと断言できるような、決定的な弱さを見せてしまったのに。
どうしてシャルルは怒りもしなければ、責めることも罵倒もしないのか。

 

「怒るって、なんで? マスターを怒る理由がないって」

 

そして不意に困ったように眉を下げた。

 

「……俺は、戦いは勝てるやつしか興味ないし。やばそうな時に退路を確保するのは今だって変わらないし。おまけに、絶対高貴になれなかった頃に貴銃士として働いてない時だってあった。……正直、あの時の俺はマスターに見放されてもおかしくなかったと思う」

 

そう言ってシャルルは苦笑したけれど、私と目を合わせると苦笑は穏やかな微笑みに変わった。

 

「でも、マスターは俺を見放さなかった。ましてや怒ったりしなかったじゃん」

 

ベスくんにはいろいろ言われちゃうけどさーとシャルルは笑い、私と向き合った。

 

「だから大丈夫。君が自分を弱いって感じてても俺は、否定したりしない。マスターがここから逃げたいなら、俺は君と一緒に行くよ。理由はなんでも。どこにでも」

 

シャルルが当たり前のように擁護してくれることに、私はまだ驚いたままだった。なんと返せばいいのかわからない。呆気にとられたままシャルルを見ることしかできない。
取り急ぎ、中途半端だった棚回りの整理を終えたシャルルは「財布はポケットにあるから大丈夫か」と呟いた。

 

「じゃあ、とりあえず基地から出ちゃおうか? ……ああでも、何かあった時に君を守れないとまずいから、銃だけ部屋から取ってこないとだなぁ」

 

ちょっとだけ宿舎に寄っていい? と訊きつつ、シャルルはそっと私の手を握る。何も言わないままだったけれど、つい私も握り返してしまう。
それを合図と受け取ったか、シャルルは衛生室の扉へ向かって一歩踏み出した。
けれども、私の足は動かなかった。シャルルに続いて歩き出すことができなかった。シャルルは何も言わない。しかし握る手に少しだけ力がこもったような気がした。

なぜだか目が熱くなった。喉からせり上がる何かが抑えきれず、シャルルの姿がじわりと歪む。唇を噛んで俯くも、床にはぽたりと水が落ちた。
どうして私は泣いているんだろう。自分でもよくわからない。
握られていた手がゆっくり離れたかと思うと、背中に腕が回った。温かい体温に包まれる。

 

「……大丈夫だよマスター。わかってる」

 

本当は、逃げたくなんてないんだよね。
でも、押しつぶされそうになってるんだよね。
いろんなことでしんどくなってるんだよね。……気づかなくて、ごめん。

近くで響くシャルルの声に、涙は止まるどころかどんどん流れていく。そうか、私はつらかったのか。マスターという肩書きが重かったのか。
貴銃士たちから見て恥ずかしくない存在でいなくては。彼らに失望されないような、立派な人格でいなくては。レジスタンスの仲間たちや恭遠さんからの、みんなの希望を打ち砕いてしまわないように、マスターという希望の存在として立っていなくては。
『私』という弱い人間などは、内側に秘めておかなくては。

そんな風に、無意識に考えてしまっていた。それに潰されてしまいそうだったのか、私は。この場においてようやくそれに気が付いた。でもシャルルの謝罪には、勢いよく首を横に振った。

どのくらいそうしていただろう。
ようやく涙は落ち着き、小さく鼻をすする。シャルルはずっと背中をさすってくれていた。私が落ち着いたことに気付いたか、空気を変えるようにぽんぽんと背中を軽く叩いてくれる。

 

「それで、マスター。俺とどこかに逃げる?」

 

見上げたシャルルは微笑んでいる。
頷いたならそれを許してくれそうな、ここから連れ出してくれる王子様のような。しかし私はゆっくりと首を横に揺らした。

 

「……いま、は、いいかな」

 

切れ切れに断ると、そう言うと思ったよとシャルルは頷いた。

 

「マスター真面目だからなぁ。その辺りはほんとベスくんといい勝負だよね」

 

比較対象がベスであったことに、私も苦笑が漏れた。ようやく、少しは笑えた。

 

「でもマスター、さっきも言ったけど……君が望むなら、俺はどこまでも一緒に行くよ。今回、愛の逃避行ができないのは残念だけどね」

 

茶化したように言うシャルルはいつも通りの声のトーンで、ウインクも忘れない。だけどそれはきっと、私とどこまでも来てくれるという、その言葉を重くしないための配慮だと受け取った。
このひとは、本当に。

 

「ありがとう、シャルル」
「俺のほうこそ。マスターにハグできたから、超役得だよね」

 

私を救ってくれたことなどまるで感じさせないような口ぶりで。それにまた救われて、私は笑う。
本当に、どこまでも優しくて、なんて愛に溢れたひとだろう。