食堂に誰かが入ってきた音がした。
反射的にそちらを見ると、誰かの正体はシャルルだったらしい。私に気が付いたシャルルはぱっと笑って近づいてくる。
「Bonjour.」
華麗に決めてくれた挨拶はフランス語だ。フランス語はわからないけれど、とりあえず「こんにちは」と挨拶してくれことだけはわかる。
最初から私を探していたのか、もしくは単に休憩でここに来たのかはわからない。だけど、私を見つけて当たり前のように傍に来てくれるのはとても嬉しい。
「マスター、隣いいかな?」
「もちろんどうぞ」
「Merci, ma chrie.」
シャルルはフランス語と共に私の隣へ腰かけた。今のフランス語を聞いてふと思う。また、呼ばれた。
少しだけ考え事をしていると、離れた席に座っていたナポレオンさんとラップさんがこちらを凝視しているのに気が付いた。
ナポレオンさんは何やら機嫌良さそうにうんうんと頷いており、ラップさんは微笑ましそうに口元を上げた。
……なんだろう? ふたりとも妙な反応をするだけで何も言ってこなかったので、よくわからなかった。
「マスター、それ紅茶?」
「あ、うん。タバティさんがブレンドしてくれたの」
「へぇ、いいなぁ。俺も淹れてもらおう」
シャルルは一度席を立ち、厨房にいるタバティさんへと声をかけていた。その会話の中で、また聞こえた。
皆がそれぞれの用を済ませるために、食堂から出ていってしまった。シャルルもだ。私はタバティさんのお手伝いで、彼が洗い終わった食器を布巾で拭いていく。そこでふと訊ねてみた。
「タバティさん、基地にマシェリーって名前の人いましたっけ?」
「マシェリー? ……いやぁ、俺の知る限りではいなかったと思うが」
「やっぱりですか」
「その名前の人がどうかしたのか?」
シャルルは時々、私を「マスター」や名前以外で呼ぶときがある。
さっきシャルルが食堂に来た時や、タバティさんと会話していた時に聞こえたのがそうだ。
マシェリーと、私をそう呼ぶときがある。私を見てはっきりとそう言うので、おそらくは私のことを指しているのだと思う。
ちなみに私の名前ではない。だから呼ばれても、どういう反応をすればいいのかわからないのだ。
一応シャルルと私は恋人であるので、違う誰かの名前を間違えて呼ばれるのは悲しい気持ちになる。
しかし呼んだ後にシャルルが訂正したりすることもないので、誰かの名前を間違って呼んでいるというわけではないらしい。
でもやっぱり……知らない誰かの名前で呼ばれているようで、なんだか複雑なのだ。それならば「マスター」という呼ばれ方のほうが、ずっとましだとすら思えてしまう。
「いえ、私も知らないんですけど、シャルルが……」
「シャルルくん?」
「たまに私のことをマシェリーって呼んでくるから、なんか複雑で。私の名前では、ないので……」
私の名前ではない別の名前。それを好きなひとから呼ばれる。
言葉にすると、思っていたよりもずっと私は気にしていたらしい。なんだか少し泣きそうな気もしてくる。それをごまかすように、水気のとれたお皿を重ねた。
タバティさんが黙ったので、しまったと思った。こんなことを言われたら困ってしまうに決まっている。厄介事を他人に共有させてはいけないのに。謝ろうとタバティさんを見やると、彼はなぜか苦笑していた。
「あー……。マスターちゃん、確認なんだけど。今言ったのは、シャルルくんからしか言われないんだよな?」
「え? ええ、そうですね。シャルルだけです」
そうだよな、とタバティさんは泡の付いた手を水で流した。相変わらず苦笑を浮かべたままだ。
「俺が言っていいのかわかんねぇが、このままだと、マスターちゃんが勘違いで泣いちゃうだろうからな」
勘違い? 私は何かを間違えていたのだろうか。
「さすがにわかってるかもしれないが、そのマシェリーってのはフランス語だ。正確にはマシェリだけどな」
「あ、そうなんですか」
正しく聞き取れていなかったらしい。私の反応にタバティさんはまた苦笑した。
「……で、だ。そのマシェリってのは誰かの名前じゃなくて、特定の相手への呼びかけなんだよ」
「呼びかけ?」
「意味、知りたいか?」
タバティさんは意地の悪い質問をしてきた。ここまで好奇心をくすぐっておいて、すんなりとそのまま教えてくれないなんて。
「もちろんです」
頷いた私にタバティさんも、よし、と頷いてくれた。心に気合い入れてくれよ、と続いたけれどどういう意味だろう。
そうして、タバティさんから意味を訊いた私は、なるほど心に気合いが必要だったと顔を覆った。予想していた反応だったのかタバティさんは笑っている。
「今度シャルルくんに同じように言ってみな。あ、マスターちゃんが言う場合はmon cheri だな。きっと大喜びするぜ」
「先に私の心臓が死にます……っ」
同時に、先ほどナポレオンさんやラップさん……つまりフランスに縁のあるひとたちが、どうしてあんな反応をしていたのかを。そして、
『Bonjour, ma chrie.』
そして──マシェリ、と私を呼ぶシャルルが、どうしていつもあんなに幸せそうな表情なのかを、ようやく理解したのだった。
(こんにちは、俺の愛しい人)