目を閉じた。唇に柔らかいものが触れた。
距離の近さを証明するように、自分のではないいい香りが鼻をくすぐった。
長くなかったはずだけど、実際はどのくらい続いたのかわからない。
やがて唇に触れていた感覚が離れていく。すう、と唇が冷えるような気がした。目を開けて、目の前の相手を見上げる。
こちらを見る綺麗な色の瞳に、アメジストみたいとロマンチックなことを考えた。
夜の月明かりに照らされた彼はいつにも増して、妖しくて美しいと思う。
エフとキスをした。
どうしてそれをしたのかはわからない。
夜、この時間に偶然廊下で出会って、なんてことない軽口交じりの会話をして。
いつもと、同じはずだった。違ったのはそこから先だ。
ふと目が合って、お互いに何も言わなくて、吸い寄せられるようにエフの顔が近づいた。
何の疑問も持たず、戸惑いもなく、まるでそれが当然であるかのように私は少し顔を上げて目を閉じて。
どうしてだろう。よくわからない。
キスした後に真正面から目が合っていても、そこに恥じらいや慈しみの情は感じられない。
「さっさと部屋に戻りなさいよ?」
「そうする。エフもね」
当然でしょ、とエフはコートの裾を翻しさっさと私に背を向けて歩き出した。彼のだとわかる香りも離れていく。
まるでいつも通りだ。いつも通りのエフで、いつも通りの私で。
背中を完全に見送ることはせず、私もエフに背を向けて自室へと戻った。
狭くて暗い部屋の明かりを点ける気も起きなかったが、さすがに暗すぎるかとベッドサイドの照明を点けた。
そのままベッドへ飛び込み仰向けになる。ほんのり明るくなった天井を見上げる。
徐に、人差し指で唇を撫でた。
さっきのはただの錯覚だったのだろうか。もしくは夢か、幻か。
もしそうだとしたなら、私はどうしてそんなものを見たのだ。
……そんなわけがないと、わかっている。
いったいどうしたの、エフ。私とキスするなんて、いよいよ頭がおかしくなった?
彼に問いかけるようにそんなことを思ったけれど、同時にそれは自分自身にも言えることだった。
私は嫌だと思わなかった。当たり前のように受け入れていた。それを待ち望んでいたかのように。
首だけ横を向いて、小さく息を吐いた。静かな部屋にはその音すらもはっきり聞こえる。
いったい、私もどうしてしまったのか。
思い悩むという程でもなかったけれど、なんとなく腑に落ちないままそっと目を閉じた。
いつもよりも遅く目が覚めて、いつもよりものろのろとベッドから出た。目が覚めても、寝る前と同じことを考えていた。
顔を洗って鏡を見ると、なぜか私はしょげたような顔をしている。今日は出撃がない日でよかった。
まったく、なんて顔だろう。らしくない。
今を楽しめないような顔でいるのは、何かを気にしているのは、私らしくない気がした。
ふ、と口元が緩んだ。鏡の中の私は困ったように、だけども吹っ切れたように微笑んだ。
「……うん」
タオルを放り出し、手早く着替えて部屋を出た。
寮棟を出て、同じ敷地内に建つイレーネ城へ入る。廊下を歩き、目的の場所へ向かう。
時折、立ち止まって敬礼する一般兵には小さく会釈する。
辿り着いた扉の前で足を止めた。
このあたりは城内でも特別だ。特別幹部である貴銃士たちに宛がわれている個室が集中している場所である。
別に立ち入り禁止エリアなわけではないものの、クセの強い特別幹部といつ遭遇するかもわからない場所を敢えて通ろうとする者は少ない。
一度深呼吸をしてから扉をノックをした。
すぐに返事はなく、不在なのかと思った時にようやく返事がなされた。
「……何か用?」
扉を挟んだ部屋の主は、訪問者が私だと理解している返事をしてきた。
「おはようエフ。とりあえず、部屋に入れてもらえない?」
「アタシは用件を訊いてるのよ」
「エフに用があったの」
問答なんて無意味なことだ。私の答えは間違っていない。エフに用があってここに来たのだ。
少しの沈黙の後で扉は開いた。
コートは着ていないけど、エフはいつも通りのシャツにネクタイを身に着けていた。彼も今日は非番だったはずだけど、身支度は変わらないようだ。
エフは少し不機嫌なような、そうでもないような。
何も言わずに扉を大きく開き、入るなら勝手にしてと言わんばかりに背を向けて離れていった。
勝手にさせてもらうことにして部屋に入り、扉を閉めた。
部屋には入れてくれたが、エフは私に背を向けてソファーに腰かけ雑誌を開いた。
何も言わない。特別追い返すつもりはないようだけど、かといって話をするつもりもないらしい。
いつもだったら、もう少し何かを言ってくれる。
今日のエフは、らしくない。さっきまでの私と一緒で彼らしくないと、そう思った。
そんなエフの様子に小さく笑って、私もソファーに腰かけた。
背中を向けているエフが何を考えているかはわからない。
でも別に迷わなかった。思考こそすれ、うだうだと悩むのは私らしくないのだから。
息をついてエフに背を向ける。そのまま後ろに体を倒せば、エフの背中とぶつかった。
「……重たいんだけど。背骨が折れるわ」
「エフ、体細いもんね」
「アンタと違ってね」
「わー、そういうこと言う?」
ああ、こういう感じだ。いつもの私たちは。
エフが少し笑った気がした。背中は温かくて、目を閉じたら心地よさで眠れてしまいそうだ。
背を向けて寝るなんて、撃たれても文句は言えないような油断だけれど。
でもいま目を閉じて浮かぶのは、昨夜の唇の感触だった。
読めないエフの表情も彼の香りも、唇が触れた感覚も鮮明に思い出せてしまう。
人差し指で自分の唇に触れる。特に緊張もなく言葉が出た。
「……ねぇエフ」
「なによ」
「私たち──どうして昨日、キスしたんだろうね」
問いかけのような、確認のような。
こんなことを訊いたところで何かが変わるのだろうか。何も変わらない気がする。
私たちの関係も、何も。変わらないし壊れない。
逆に言うと、壊れるくらいの密な関係なわけでもないのだ。
エフは答えてくれるだろうか。
しかし理由がわからないままでも、私は構わなかった。そこまで純情なわけではないし、そんな性格でもない。
するともたれるように、エフがこちらに体重をかけてきた。
背中が重くなる。雑誌を閉じる音がする。小さくため息を吐く音もする。
「……さぁ? ほんと、どうしてかしらね?」
「うん。……私も、わかんないや」
結局明確な答えは出ないままだ。だからと言ってどうなるわけでもない。
困ったように、呆れたようにふたりして笑ってしまう。ただひとつだけ確かなのは、お互いに嫌ではなかったということ。
だから今、こうして振り向いて目が合って、またキスしそうになるような距離で。
「どうせだから、またしてみる?」
そんなことを言うエフに、私も笑い返す。
「うん、いいよ」
額を合わせて小さく笑い合ってしまうくらいには、きっとお互いを好きだった。
だから二回目のキスをした理由も、きっとそれで充分だった。