※世界帝アシュレーとは別のマスター
ミカエルのピアノを聞くのが好きだ。
時々、個人的に演奏をお願いすることもある。彼はいつも快く了承してくれる。
それをお願いするのは単純に、音楽という癒しを求めているのもあった。加えて、演奏しているミカエルを見ているのが好き、という理由もあった。
廊下を歩いて、目的の場所へと辿り着く。
扉の向こうからは綺麗なメロディーが聞こえた。ノックはせず、静かに扉を開けて私は部屋へと入る。部屋は部屋の主が生み出す音で溢れていた。
こちらに背を向け、ピアノに向き合っているミカエルは振り向くこともなくピアノを弾き続けている。
私も彼に声をかけることなく、近くの椅子に腰かけた。そのまま彼の背を見ながら演奏を聞く。
曲名はわからない。しかし彼の選曲なので無条件に良い曲だと思える。
迷いなく鍵盤を滑る指も、ペダルを操作する足も、それらによって生み出される音も、彼自身もすべてが美しいと感じる。
彼の視界は塞がっているものの、音には一切の間違いは生まれない。その視界はどういう仕組みなのか、彼を召銃した私にもわからないけれど。
やがて綺麗な和音が響いたと思うと、曲は終わりを告げた。
ミカエルの手が鍵盤から降ろされる。そうして彼は初めてこちらを振り向いた。
「ああ、マスター。来ていたんだね」
「うん。お邪魔してます」
無断で部屋にいることをミカエルは怒りもしない。構わないよ、と口元に笑みを浮かべるだけだ。
それというのも、こうして彼の部屋に入り演奏を聞くのは一度や二度ではないからだ。気まぐれにミカエルの部屋を訪れては、彼の演奏を聞いている。
演奏の邪魔をされたくはないだろうという判断で、ノックも声もかけずに黙って入り、曲が終わってから今のようなやりとりをする。
ミカエルが怒らないので、私はそれを続けている。ミカエルも、聞く者がいると心なしか嬉しそうにも見えるのだ。勘違いかもしれないけれど。
私も私で、彼の演奏を独り占めしているような優越感がある。
「せっかくだから、もう少し近くでお聞きよ」
「邪魔じゃない?」
「マスターとなら、このピアノで連弾もしてみたいね」
答え方がぴんとこなかったが、つまりは連弾するくらいの距離にいても邪魔ではないということか。さすがにそれは気が引けるので遠慮しておきたいと思う。
そもそも、ほんの少し、嗜み程度でしか私はピアノは弾くことができない。
腰を上げて、彼の近くへ椅子を寄せた。後ろではなく横から彼が見えるように。再び腰かけた私にミカエルは納得したように頷く。
そしてまたピアノへ向き合った。
「さて、次は何を弾こうか」
何を弾いてくれるのだろうと黙っていると、不意にミカエルが私のほうを向く。
「マスター、どうして何も言わないの」
「え?」
「次は、何を弾く? 君が聞きたいものを言って」
思わず声が裏返った。
一人ごちるように言っていたものだから、私に向けた問いかけではないと思っていたのだ。しかし今はそうではなかったらしい。
どうやらリクエストを弾いてくれるらしいが、私はピアノ曲は詳しくない。それこそミカエルのような上級者が弾くものはさっぱりだ。
えっと……、と少し考える素振りをするも、何の曲名も浮かんでこない。
「……私、ピアノ曲は詳しくなくて」
「うん」
「だから、ミカエルに任せるよ。ミカエルが弾くなら、どんな曲でも素敵だと思うし」
事実そうだと思っている。だからこうして、何度だって彼のところを訪れたいと思うのだ。
「でも希望を出すなら、暗い曲じゃないほうがいいな」
大雑把ながらせめてものリクエストをすると、ミカエルは微笑んで頷いた。
鍵盤に手が置かれる。いざ弾き始めるというところで、彼は優雅に片手を私のほうへと向けた。まるで何かを差し出すようだ。
「それじゃあ君へ、セレナーデを一曲」
どうやらこれから弾く曲は、私へ贈ってくれるらしい。
ありがとう、と笑って居ずまいを正すと、それを合図にミカエルは音を奏で始める。
時折ミカエルはわずかにこちらへ首を動かす。君のために弾いているよ。そう言っているような仕草だ。
私のために優雅な旋律を生むミカエルを、私はとても美しいと思う。