再見と遠見

寝る前の読書というのはいいものだと思う。

アーロン様を見習い、最近は寝る前に少し本を読むようにしている。しかし、今わたしが読んでいるのは厳密には本ではない。城の庭師さんに頼んで貸してもらった、城内に植えてある植物の一覧表だ。
先日、アーロン様が植物学の本を読んでいたのに触発された。本格的なものは少し敷居が高い気がしたので、手始めに園芸品種から。

 

「進まないな……」

 

その一覧表には、現在植えてある、もしくは以前植えていた植物の名前が細かく載っているが、名前だけではどんな植物なのかわからない。読むのは難航していた。

図鑑を借りてこようか。城の書庫なら詳細なスケッチの載った図鑑があるはず。
部屋を出るような時間ではないが、どんな植物か知りたいという欲求が体を動かす。ベッドに突っ込んでいた脚を抜き、ショールを羽織って部屋を出た。

 

 

 

「これかな……?」

 

誰もいない書庫には小さな呟きも少し響く。
本が詰め込まれた棚から一冊を引き抜いてぱらぱらとめくる。月明かりのおかげではっきりと見えるページには、主に園芸品種の植物の絵と解説がある。
これにしよう。あの一覧表にあるすべての植物が載っているわけではないだろうけど、これで少しははかどりそうだ。書庫を出て扉を閉める。

部屋へ戻ろうとした時、コツンと自分のものとは別の足音が重なった。廊下の静かさと暗さは、それを怖いように演出するには充分な素材だ。そちらを振り向くが思わず足がすくむ。

 

「エストレア?」

 

暗闇から突然名前を呼ばれて、盛大に心臓が跳ねた。一瞬ぼんやりと青い人影が写ったようなきがした。しかし頭で考えるより先に口が動く。

 

「アーロン様、ですか?」
「ああ」

 

返事とともに見えた姿はそのとおりの人だった。
わたしとは反対に、アーロン様は特に驚いた様子もなくいつもと同じように声をかけてきた。どうして今、わたしはアーロン様だとわかったんだろう……。あまりにも当然のように呼んでいたことはわたし自身が一番驚いていた。

 

「城の中とはいえ、この時間に出歩いているのはあまり感心しないな」
「眠気起こしに本でも読もうと思いまして」
「ああ、それで書庫か」

 

目の前の部屋が書庫だということと、わたしが見せた本で一応納得はしたらしい。
何の本かを訊かれなかったことに密かに安堵した。別に見られて困るものではないけど、ついこの前植物が詳しい云々の話をしたばかりだ。それに影響されたとばれるのは、なんとなく気恥ずかしい。

 

「アーロン様はなぜこの時間に?」
「日を決めて城の見回りを任せてもらっているんだ。個人的な修行だけでは、城への奉仕にならないのでね」

 

アーロン様が城の見回り、というのは不思議に思った。
波導使いという肩書きを持っているためなのか、わたしを含めた他の使用人らとは違う立ち位置がアーロン様には確立していた。

皆、アーロン様に敬意を払う。強制されたわけじゃない。彼の雰囲気が、振る舞いが、自然とそうさせるように思える。
だからなんだか新鮮だった。こう言うのは失礼だけど、見回りというのはもっと下の使用人が行うことがほとんどだからだ。

 

「珍しいか?」
「はい。わたしにとってはとても珍しいです」
「私もエストレアと同じく城に仕える者であることに変わりない。……皆、私を敬ってくれるが、そこは履き違えないでほしいところだ」

 

思わず首を傾げた。よく、わからない。

 

「敬意は人を特別という場所に位置付ける。でもそれは、徐々に人を孤独にすることもある」

 

少し寂しげな笑顔は一瞬で消えたが、アーロン様の言葉とその表情で理解した。

──この方は今、この先どちらに転ぶかわからない危うい位置にいるのではないか。

アーロン様も城に仕える身であるというのは単純明快かつ、重要なこと。波導使いである前に、わたしや他の召し使いと根本は同じなのだ。見回りをしていようと何もおかしいことはない。わたしがそれを「珍しい」と思うことがおかしい。

畏敬と敬遠は紙一重だ。城の人間がアーロン様に向けているのはどちらなのか。今まで気付かなかった事実に、何も言えなかった。
少しの沈黙の後、アーロン様は歩き出してわたしを振り返る。

 

「部屋まで送ろう。たとえ室内でも夜は冷える」

 

そう言われて、床に貼りついていた足は動き出した。

歩調を合わせて隣を歩いてくれている。
送るとは言ってもアーロン様はわたしの部屋の場所を知らないので、先を歩いても意味がないからだろうけど。
お互いに話すことはしない。沈黙が気まずくはないけど、さっきの言葉が頭をぐるぐると回っていた。そうしているうちに部屋の前に着いてしまったので「ここです」と申告する。

 

「ありがとうございました。お手数をおかけしてしまって」
「気にしなくていい。私がしたくてやったことだ」

 

先ほどと違ってアーロン様は穏やかに笑う。それに笑い返してみて、ここに来る間に自分が険しい顔をしていたのがわかった。

 

「それではここで失礼しよう。いい夢を、エストレア」
「はい。おやすみなさい」

 

きっとアーロン様はまた見回りに戻るのだろう。歩き出したアーロン様にとっさに声をかけていた。

 

「アーロン様! ……明日の昼間も、お届けに伺います」

 

何を、とは言わない。わかっている。振り返ったアーロン様は少し驚いたようだけど、それは微笑みに変わった。

 

「ああ、楽しみにしている」

 

背中は遠ざかり、廊下の暗闇に溶けていく。
本を持った手に力がこもる。今夜は長い夜になりそうな気がした。