先の早見

アーロン様とルカリオがオルドラン城に来て、一カ月ほど経っただろうか。

波導がどのようなものなのかは未だにわたしはよくわからないが、誰にもできるわけではない特別なことだという時点ですでに彼らは尊敬に値する。
しかし、詳細を知らないために彼らへの称賛が「すごい」というあまりにつまらない一言でしか表現できないことが少し歯がゆかった。

外の階段を下りて慣れた庭を歩く。
彼らは今日も町はずれの森へ修行に行っている。もう戻って来ているとは思うけど。
植物が作るアーチ状の通路を通り、目的の場所へたどり着く。窓を覗き込むとちょうど本から顔を上げたらしいその部屋の主と目が合った。

会釈をすると、どうぞ入ってと言うように微笑んで扉のほうを示してくれる。それがなんだか嬉しい。
窓ガラス越しのやりとりにわたしは頷き返し、扉へ向かう。入ることをすでに許可してくれているとはいっても、礼儀としてノックは忘れない。「どうぞ」という声に従い扉を開けた。

 

「失礼いたします、アーロン様」
「いらっしゃいエストレア」

 

わたしが何の目的で来るかはもうすでにわかっているからか、バスケットからあれこれ取り出し始めることにアーロン様は何も言わない。

 

「今日は何の本を読んでいらしたのですか?」
「植物学の本だ。城の書庫から借りた」

 

昨日はたしか歴史書だった。アーロン様が読書家であることはわりと最近になってわかったことだった。
わたしがここに来るときには、ほとんどの確率で何かしらの本を読んでいる。それに比例するようにアーロン様が博識であることも知っている。この方はどこまで優秀な人なのだろう。

準備ができたティーカップにお茶を注ぎアーロン様の前に置いた。飲む前にアーロン様は必ず香りをかぐ。そして一口。
躍起になっている様子はないが、初めてお茶を届けた日のちょっとしたクイズが気にかかり続けているようにも思える。

 

「今日は……ナナシの実か?」
「残念、はずれです。今日はチーゴの実ですよ」
「またはずしたか……」
「植物学の本を読んでいらしたのに」

 

そう言って茶化してみると、アーロン様は苦笑した。

 

「これは言い訳もできなくなったな」
「もともと言い訳するつもりもないのでしょう?」

 

アーロン様は何も言わず、また笑って紅茶を飲んだ。沈黙は肯定ととられるというが、この場合は違う。いちいち言われなくてもこのくらいわかる。アーロン様のような人がこれしきのことで言い訳なんてする必要はない。

 

「そういえば、エストレアは詳しいのか?」
「え?」

 

何を、と訊ねる前に「植物」とアーロン様は短く続けた。先ほどまで開かれていた本をトントンと指で叩く。ああ、そういうことか。

 

「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、あまり詳しくはありません。それこそ紅茶の茶葉やきのみ、城内に咲いている園芸品種が少しわかるくらいです」
「そうか。園芸品種はあまり載っていなかったな、この本は」

 

視線を追ってわたしも本へ視線を落とす。城の書庫から借りたと言っていた。城にある本は少し難しいものが多いし、アーロン様が読んでいたものにはおそらく薬草が主に載っているのだろう。

少し興味がわく。アーロン様のような専門的かつ掘り下げられた知識をわたしは持っていない。多少花の名前がわかるだけの知識は、アーロン様のそれと比べてあまりにも陳腐だった。
少し勉強してみようか。そう思って紅茶を一口。

 

「今日のお茶請けもいい味だ。紅茶の甘みとちょうどいい」
「あ、」
「ん?」

 

途中だった思考が切れて我に返ると、アーロン様が一口サイズのサンドイッチを口に運んだところだった。わたしが中途半端に何か言いかけたことに首を傾げている。

 

「いえ……なんでもありません」
「そうか」

 

視線が外れてほっと息をつく。
アーロン様の褒め言葉に思わず、ありがとうございますと言いそうになって慌てて口をつぐんだ。いつものお茶請けは料理人が作っていると、アーロン様にはお茶を届けた初日にそう言った。今となっては、言ったことを少し後悔している。

本当はそうではないからだ。
リーン様の分、及び今はアーロン様たちの分も含まれているが、お茶請けを作ることはわたしの仕事だった。もちろんそれは普段のティータイムのみであって、来客などのときはきちんと料理人さんが作っている。

なんとなく言い出すタイミングを逃してしまっていた。アーロン様がお茶請けの味を褒めてくれる度に言い出しづらくなっていく。今さら「わたしが作っています」とは言えない。

 

「エストレア、どうした?」
「何がでしょう?」
「ずいぶんと難しい顔をしている」

 

ごまかすように口元を手で覆った。気づかないうちに表情に出ていたらしい。

何を悩む必要があるのか。言い出せないことを後ろめたく思うのはわたしの勝手だ。そもそもアーロン様が知らなくても何も問題はない。
褒め言葉をもらっているという事実だけで充分だ。たとえ自分に直接向けられたものでなくても。

 

「元々このような顔ですよ、わたしは」
「それは肯定できないな。エストレアはもっと表情豊かだろう?」
「……それは褒め言葉でしょうか?」
「褒め言葉だ」
「それなら安心しました」

 

手の中でカップの紅茶が揺れる。なぜか動揺した。

エストレアはもっと表情豊かだろう?
言われたのはそれだけだ。褒め言葉と言えるのか、微妙に判断が難しいような表現。でも褒められたのなら素直に喜んでおこう。

サンドイッチをつまんだ。うん、自作ながらおいしい。
自画自賛していることは自分しか知らないし、思うくらいいいだろうとわたしは必死で思考をそっちに持っていこうとしていた。