優しさを1ダース分もらえば恋になる

※2章のフランス編(シャルルヴィル加入)後

 

士官学校へ帰ってきて、ラッセル教官に報告も終えた。
勝手な行動をしたことによる罰則は受けてしまったけれど、これには文句は言えない。
寮に戻り、部屋の扉を開けて中へ入る。

 

「……はぁ」

 

思わず口からこぼれたため息と共に、そのまま扉に背中を預ける。

 

「……大丈夫」

 

大丈夫、シャルルヴィルがいる前では、きっといつも通りにできていたはずだ。でも一人の時間が許される今、今だけはそれは必要なくなったはず。
そう思うと同時にじわりと視界が滲んでくる。みるみる視界を侵食したものは最終的に目の中に収まりきらず、ついに目の端からこぼれていく。

 

「……っ、ぅ……」

 

扉に付けていた背中がずるずると滑り、私はそのまま扉の前に座り込んだ。
悲しかった。リリエンフェルト家でシャルルヴィルの受けた苦しみが、まるで自分のことのように思えてしまって、悲しかったのだ。

彼は橋から身を投げようとした。
それほどまでに精神を追い詰められることを聞き流せるほど、私は無関心にはなれない。私が同じような苦しみを受けたわけではないとはいっても。

それでも、もう生きるのを辞めたいと、人の体を得ていることを辞めたいと貴銃士が思うほどのことが、どうして軽い気持ちで聞き流せるというのだろう。

その上、私にとって特に決定的だったのが、シャルルヴィルが目の前で人の体の死を迎えようとしたことだった。
シャルルヴィルの姿が私の目の前でいなくなった瞬間、自分が『マスター』となったあの日のことが思い出された。

ヴィヴィアンが、目の前で死んでしまった日のことを。
また私は、助けることができずに、目の前で誰かが死ぬのを見ることしかできないのかと。
幸いジョージのおかげでシャルルヴィルは最悪の結果を免れた。喜ぶべきことだ。けれども思い出された親友の死が、それに重なったシャルルヴィルが身を投げようとしたあの瞬間が、頭にこびりついて離れないのだ。

いくら自分の部屋とはいっても、泣き声なんて上げてしまえば必然的に声は大きくなってしまう。隣の部屋にも生徒はいるのだ。一思いに声を上げられるわけがない。
声を堪えながら泣くというのは、難しい。飛び出す声を抑え込もうと必死になるほど、出せない声が溜まって喉が熱と痛みを帯びる。
その苦しみをさらに堪えようとすると、体は丸まり、膝を抱え、そこに顔を埋めることになる。

 

「おい、ナマエ。……いるだろ?」

 

突然聞こえた声に体が跳ねた。扉の向こうから聞こえる声の主はすぐにわかる。

 

「……っ、ライク・ツー……?」

 

声がひくつくのを抑えながらも声を返す。居留守なんてライク・ツーには通用しないと思った。それならばいることを示しておいたほうが早い。
何の用だろうかと思った。今は一人にして欲しかった。早く立ち去って欲しかった。来たのがライク・ツーならなおさらだ。

泣いていることがばれたら、くだらないことで泣くなと、そんな類いのことが言われることは想像に容易いのだから。そして私も、みっともなく泣いていることなんて知られたくないのだから。
ライク・ツーからの返事はなく、しばらく沈黙が落ちたが私にとってはどうでもよかった。用がないなら帰ってくれと、今の私は彼の来訪を喜ぶことすらできないのだ。

すると少しだけ、きしり、と扉が音を立てた。誰かが体重をかけたら鳴るような、そんな音だった。

 

「マスター様のために、人払いくらいはしてやるよ。……あとで紅茶でも淹れて来てやるから、終わったら言え」

 

そんな言葉が聞こえて、呆気に取られた。
膝を抱えたまま、視線の先に見える自分の爪先を見つめて、相変わらず勝手に流れてくる涙すら一瞬放置した。
同時に、今の私がどういう状態かを気づかれていることも理解した。ライク・ツーは、わかっているのだ。そうでなければ人払いなんて言葉は出ないし、終わったら言えなんてことも言わない。

終わったら。──私が泣くのが終わったら。そう言っているのだ。

 

「……ふ、……はっ」

 

ライク・ツーの言葉の意味を理解して、今は泣いているはずなのに思わず笑いが出た。
どうしてばれたのだろう。みんなと別れて自分の部屋に来るまで、悲しいなんて表情はしていなかったと思うのに。
一人で堪えて済ませようとしていたのにばれていたことが滑稽に思えて、笑えてしまう。格好悪い。

 

「……うん、ありがとう」
「アールグレイでいいか?」
「うん、イギリス国民としては当然だよね」
「りょーかい」

 

それ以上の言葉は続かなかったけど、当然ながらそれでよかった。
今の私はやっぱり喋る気分ではないし、ライク・ツーだって会話で私の気を紛らわせようとか慰めようとか、そういうことをするつもりはないのだろう。

今の会話は『私は泣いてなんていないし、ライク・ツーもそんなことは想像もしていない』という互いの了承を得るためのポーズだ。今の私にはそれがありがたかった。

私のことは私が対処しなければならない。だから一人で終わらせようとしていたのに、彼のおかげで格好がつかなくなった。
聡くて気遣いのできるライク・ツーは、私が格好良く一人で終わらせることすらさせてくれないらしい。他者に無関心なようで、それでもこうして気を回す。良くも悪くも完全に見放してはくれない。

それでも『泣いてるなんて思ってはいないけど、まぁとりあえずしばらく経ったらなんとなくお茶でも飲みましょうか』と、そんな意図の中に折りたたまれた気遣いがわからないほど私は馬鹿ではない。

だから格好悪いと思っても、それが嬉しい。
声を抑えはしたけれど、私はそのまま正直に泣いた。ライク・ツーの優しさに甘えた。だって彼のほうから世話を焼いてきたのだ、それを受け取っただけだ。
喉の痛みや熱はまだ残るけれど、しばらくして涙は落ち着いた。目元を拭って、背中を扉に付けたままずるずると立ち上がる。
目を閉じて脱力すれば、背中だけではなく後頭部も扉へ預ける形になる。

 

「ライク・ツー……?」
「うん?」

 

ああ、やっぱり。彼はずっといてくれた。当然ながら姿は見えていないけれど、声は近くに聞こえる。

 

「終わったよ」
「あ、そ」
「お茶、ほんとに淹れて来てくれるの?」
「……まぁ、特別にな」
「ドイツに行った時も、そう言ってたね」
「俺がわざわざ淹れてきてやるんだから、ちゃんとありがたがれよ」
「うん、わかった」
「待ってる間に、せいぜい顔でも洗っとけ」
「ありがとう。そうするよ」
「……じゃ、ちょっと行って来る」

 

うん、と返事をすると扉の前から足音がして遠ざかっていく。
閉じていた目を開けた。泣いた直後だというのに、不思議と私は笑っていた。

まったくもってライク・ツーというひとは、そんな風に優しいから、私なぞに恋心を持たれてしまうのだろう。本人に自覚があるのかないのか、そんなことはわからないけれど。

少なくとも、こうやって日々の何気ないことで優しさを受け取って、なんだかんだと目をかけてくれることが嬉しくないわけがない。
誰だって、自分に優しさを与えてくれる人を好意的に見てしまうものなのだ。その好意が信頼となるか、情愛となるか。私が勝手に後者に成長させてしまっただけではあるけれど。

 

「ほんとに、困ったなぁ」

 

扉から離れて、軍帽をツリーにかけたりテーブルを拭いたりしながら笑って独り言をこぼす。

私に優しさをくれるから積もり積もって恋になってしまった。それでも私が抱いた気持ちを、ライク・ツーが受け取ってくれる保証はないから困ってしまう。
お茶を持って来てくれるライク・ツーに、目が腫れた顔を見られることに困ってしまう。

好きなひとが戻って来て来るまでに腫れた目が魔法で治ればいいのにと、そんなことを思いながら待っておくことにした。

 

(貰ったのは、アールグレイふたり分と水の入った洗面器と濡れタオル分の愛)