あれ以来、アーロン様の所へ行くと何度かジゼルさんの姿があった。
その時は必然的にお茶を届けられないことになっていたが、やむを得ない。彼女との会話がすでに始まっていると、どうしてもその間に入っていくのははばかられる。
ご一緒できなくても、せめてお茶だけでも届けておこうと今日はいつもより早めにアーロン様の部屋へ向かっていた。
「ジゼル、またアーロンさんの所に行くの?」
「そうよ。何か悪いの?」
「別に悪くはないけど……アーロンさん、あの時間は別の人と会ってるのよ?」
そんな会話が聞こえてきて足が止まってしまった。ジゼルさんと、もう一人はわたしもよく知っている年上の使用人さんだ。
「……ああ、エストレアさんのことね」
「なんだ、知ってるんじゃない」
自分の名前が出てきて、体が硬直する。
「知っているけれど、だから行ったらいけないの? ……私は、アーロン様とお話ししたいのよ。あの時間を逃していたら、いつまでもできやしないわ」
はっきりしたその口調に、弾かれたように体が跳ねた。
それが何を意味しているのか、その先の会話を聞いて確認する勇気は起きない。それに盗み聞きは、行儀が悪い。なんとか足を動かして、音を立てないようその場から離れた。
さっきの会話でわかったことは明らかだった。
ジゼルさんはアーロン様を好いているのだ。だから、あの時間にいた。あの時間ならばアーロン様は修行から戻っていて、確実に部屋にいらっしゃるから。
このような時は、どういう感情を持つのが正しいのだろうか。
妬み? 悲しみ? 怒り? どれもあまり当てはまらない。むしろ……自分がとても情けなくて、自分を恥じた。
ジゼルさんはアーロン様とお近づきになるため部屋へ通っていた。アーロン様とお話ししよう、自分を知ってもらおうという、そのための必要な努力だった。だがわたしはどうだろう。何を努力しただろう。
お茶を届けていることは、元をたどればリーン様からの指示が始まりだった。続けたのは自分の意思だが、それだけだ。
好意を自覚している今となっては何よりの関係だけれど、それはすでに習慣となった日常の延長線上に過ぎない。
わたしは、何もしていない。
もはや習慣になっているからと、当然のような顔をしてアーロン様と過ごしてきた。それができるのは自分だけだとどこかで思ってしまっていた。
アーロン様とのつながりは唯一絶対とは程遠くて、他の人たちと比べたら少し親しいという、ただそれだけのことにわたしが寄りかかっているだけなのだ。
自分では何もしていないわたしが、彼女に嫉妬、ましてや怒りを覚えるなど筋違いも甚だしかった。
「ずるいな……」
わたしはずるかった。それがよくわかった。
今後、どうしていくことが最善か考えなければならない。ただ、今は少しだけ、時間が欲しい。
*
「エストレア」
名前を呼ばれて顔を上げた。声だけで誰なのかはもうわかっていた。
見上げた先にはアーロン様がいて、わたしは立ち上がって会釈した。
「アーロン様、こんにちは。……あ、このような格好で申し訳ありません」
庭師さんの手伝いで、植え込みや花壇からの雑草除去をしていたのだ。
侍女といっても、こういう雑務は昔からしていたし嫌いでもない。泥の付いた手を後ろへ引っ込める。
「いや、それはまったく構わないが。……最近、どうかしたのか?」
探るような視線と言葉の意味は理解できる。
お茶の時間にわたしが来なくなったことを言っているのだろう。
「ああ、申し訳ありません。少し忙しくて、時間が取れなくなってしまっていて……」
「そうか。いやすまない、催促しているわけではないんだ」
それはわかっておりますよ、と笑っておく。内心はあまり笑う気分ではないけれど。
忙しくない。本当は。いつも通り休憩をいただいている。わたしは自分の意思で、お茶を届けに行くことを辞めた。
よく言えば、わたしはジゼルさんより優位な立場にいたのかもしれない。だけど自分の努力でその役割や立場を得たわけではないわたしが、それに甘えたままアーロン様を好きでいるのは不公平だ。
それならば特別を捨て去って彼女と同じ位置から、改めてアーロン様とお近づきになる努力をしようと思ったのだ。
「それに、別の方がいらっしゃっているようですし、それをお邪魔するわけには参りません」
ジゼルさんがアーロン様に好意を持っていようといまいと、話し中に間へ入っていくことはマナーとしてするべきではない。わたしが早くに行ければいいのかもしれないが、仕事の都合上そうもいかない。
今もアーロン様が声を掛けてくださったから会話できているのであって、わたしからアーロン様へ会いに行くことはまともにできていない。
理由もなく会いに行っていいものなのかと、歯止めがかかってしまう。結局はその点も、お茶を届けに行くという大義名分に頼っていたのだと改めて思い知らされる。
「アーロン様は、最近お変わりありませんか?」
「……ああ。エストレアはどうだ?」
「変わらず良好ですよ」
「それならいいが。修行の時間が取れないようでも、結晶根を通じての練習などはいつでも相手になろう。ルカリオもな」
「はい。ありがとうございます」
その言葉でずいぶん救われる。波導の修業と恋は別の問題だ。修行でアーロン様と関わることは、まだ許されるだろうか。
そろそろ時間が来ることに気づいた。
わたしが休憩をもらう時間であって、先日まではアーロン様といられる時間で、でも今はそうではなくて。
ジゼルさんはきっとすでに部屋へ向かっているのだと思う。アーロン様もそれはわかっているはず。
行って欲しくない。そう言ったらどう思われるだろう。ここで会話を続けて引き止めるのは卑怯だろうか。
……わからない。でも、もうずるい優位にはいたくない。そう思う反面、腹の底から重たいものが上がってくる。ああ、嫌だ。とても気持ち悪い。
「……アーロン様、そろそろお部屋に戻られたほうがよろしいのでは?」
「ん……いや、それは、」
怖い。怖くなってきた。何を言ってしまうかわからない。今は、一緒にいてはだめだ。
「ジゼルさんも待っていらっしゃるでしょうし」
自分で言っておきながら、その言葉は深く自分を傷つけている気分だった。
行かないで欲しいのです。裏腹の言葉まで出てしまいそうになって、口をつぐむ。
「……エストレア、本当に……何があった?」
「いえ、何もありませんよ」
わたしの様子がおかしいことに気づいているのだろうか。
自分でも思う。今のわたしはわたしではない。湧き上がってくる黒くて重たいものは、どうしたら抑えられるのか。
アーロン様の口が動く。
だめです。今これ以上、何もおっしゃらないでください。
「だが、」
「っ、アーロン様には、関係ありません!」
瞬間に訪れた静寂のせいで、余計に自分の声が大きく響いた。
ややあって、気づいた。顔を上げたのと、アーロン様の表情が歪んだのは同時だった。青い目が曇る。
「……そうか」
口を開いても声が出せない。喉がぎちぎちを締め付けられるかのような感覚を覚えた。
目を伏せたアーロン様は体の向きを変えた。それによって表情はまったく見えなくなる。
「すまなかった」
その一言で絶ち切られた。これ以上は何も言わないという意思表示だ。その代わり、きっとわたしからも何も言えない。
アーロン様はそのまま歩き出して、その背中を止めることも、見送ることもできなかった。俯いていなければ、耐えられない。
足音が完全に聞こえなくなってから、思わずその場にしゃがみ込んだ。わたしは何をしているのだろう。怖い、気持ち悪い。胸がえぐられているみたいだ。
投げ出されたような自分の手が見える。泥が付いた手だ。
昔から泥や土を汚いと思ったことはない。植物を育ててくれる恵みの大地だからだ。でも今は、手がとても汚く見える。
泥ではなく、溢れ出てしまったとても黒くて重たいものがまとわりついているように見えて仕方がなかった。