予兆の予感

訓練期間を終えて、兵のそれぞれが正式に編成された班へ配属された。
本人の希望と各々の適性において分けられていくはずなのだが、わたしはなぜかそれに適応されず上官から直接の辞令を受けることになった。

 

「リーン様から直々にご指名があった。お前に護衛として傍に付いて欲しいとのことだ」

 

その辞令に呆気にとられた。
差し出された紙にはリーン様直筆の文字で、護衛を手配してほしいという旨が書かれている。そこにあるのはわたしの名前である。

 

「ただ傍に突っ立って、有事の時だけ動くのが護衛じゃないぞ。…リーン様がお前を指名した理由はわかっているな」
「……はいっ」

 

少し声が震えていたかもしれない。嬉しさでだ。
軍へ入ってからというもの、わたしが侍女としてお傍に付けなくなってからは、別の侍女や執事がついていたはずだ。その状況に特に困っていたわけではないだろう。

だからこうして今わたしを名指しで傍に置いてくれというのは、単に護衛としての役割を求めているわけではない。
また、お傍で働くことができるのだ。

 

「以降の護衛時はリーン様のご指示に従え。全体召集が必要な時はもちろん来てもらうが」
「はい」

 

上官は満足したように頷き、姿勢を正した。

 

「ではエストレア、今日付けでリーン女王陛下の護衛に就くことを任命する」

 

 

ノックをして部屋に入るところまではいつもと変わらない。
閉めた扉から一歩前に出て背筋を伸ばす。初めて侍女としてこの部屋に入った時と同じような感覚だ。

 

「本日よりリーン様の護衛につくことになりました、エストレアです」

 

そんなわたしを見たリーン様は小さく吹き出した。

 

「ふふっ、そこまで改まることはしなくていいと思うのだけど」
「正式な辞令ですから、軽々しい気持ちではよくないと思いまして」

 

改まり過ぎてしまったかもしれないけれど、これはわたしにとってはとても意味が深いことだ。

 

「お傍に置いていただけること、感謝いたします」

 

最初は侍女として、今日からは護衛として、そして今日も含めてこの先はその両方として。

 

「これからよろしく頼みますね、エストレア」

 

当然ながら、答えなんてわかりきっていた。

リーン様の傍で護衛をするということは、事実上これまでのように侍女として働くという役割もある。
そうなると、リーン様が公務中だったり会合中の時には一時的にわたしは時間が空くことになる。

その時間がつまりはお茶の時間になっていて、行く場所があったわけで。
しかし現在、その場所へ向かう足が重い。少し歩いては立ち止まって深呼吸をするという一連の動作を、すでに何回繰り返しているのか。早くしないとお茶が冷めてしまうというのに。
目的の場所へ目と鼻の先まで何とか来たものの、そこから先が問題だ。

アーロン様に会うことが、怖いのだ。
あの日に喧嘩じみたことをして以降、軍に入ったことでお茶を届けることができなくなっていた。
その空白となった時間を埋めるために、アーロン様が別の習慣や楽しみを見つけていたら。わたしがここに来る理由がなくなってしまっていたら。そもそも、会うことを拒まれたら。

以前は、窓越しに部屋を覗けばいつもアーロン様はいてくださった。現在はそうではないかもしれないという可能性が否定できない。
あの日のことを謝れておらず、時間が経ち過ぎてしまったことも。

それでもずっとこうしているわけにもいかなかった。
お茶の差し入れを断られてしまったならばそれは仕方がないことだ。けれどせめて、あの日のことを謝罪しなければ。

バスケットを持ち直して足を進め、以前そうしていたように窓から部屋の中を伺う。

 

「……」

 

椅子には誰も座っていない。行儀が悪いが、顔を近付けて覗き込んでみても部屋には誰もいないらしい。
小さく息を吐くと、一気にバスケットの重さが増した気がする。

 

「……仕方ないか」
「何がだ?」

 

ため息と共に出た独り言に返ってきた言葉に、体が硬直した。その声だけで胸がざわつくわたしは一体どうしてしまったのか。
振り向くと、アーロン様がそこにいる。これほど近くで会うのはいつぶりだろう。

もしかして窓に貼り付くようにしていたところを見られてしまっただろうかと慌てるわたしをよそに、手元のバスケットを見たアーロン様は笑みを浮かべた。

 

「エストレアが来たということは、お茶の時間が再開すると期待していいか?」

 

自分がここに来た本来の目的を思い出した。
同時にアーロン様の言葉に一瞬で心が救われたような気がした。

 

「あ……、も、もちろんです。大いに期待してください」
「そうか、待ったかいがあった。では中へ」
「はい……」

 

これまでと変わった様子もなく、わたしを招いてくれる。先を行くアーロン様へ付いていき、戸惑いながらも部屋へ入る。
前の背中を見ながら、考えずにはいられないことがあった。

バスケットを置いたテーブルとは別の、部屋の隅にある机には書庫から持ってきたのだと思われる本が山積みになっていた。何十冊あるだろう。

待ったかいがあったとアーロン様は言っていた。もしかすると、この時間を空白のままにしておいてくださったのだろうか。
そう考えながら、準備をしつつ先ほどから疑問に思っていたことを訊いてみる。

 

「あの……アーロン様、今日は一体どうされたのですか?」

 

具体的には言わないまでも、わたしが何を訊きたいかは伝わったらしい。
ついさっき外で会ったアーロン様はとても崩れた格好をしていた。マントも帽子もグローブも外して小脇に抱え、腕まくりされて露わになっている腕や手は少し濡れていたし、とどめは頬に付いた泥である。
いつぞやの、早朝に会った時の寝起き姿と同等と言えそうだ。

 

「ああ、庭師さんの手伝いをさせてもらっていたんだ。新しい花を植えると言っていたのでね」
「庭師さんの……?」

 

そういうことか。それならたしかにマントやらは邪魔になるから外すだろう。腕や手が濡れていたのはおそらく終わった後に手を洗ったからで、頬に泥が付いているのも頷ける。

庭師のおじいさんはわたしが小さい頃からよくしてくれたとてもいい人だ。最近はいろいろ立て込んでいたからあまり話せていなかったな。
しかしそれにしても、いつの間にアーロン様と庭師さんはそれほど親しくなっていたのだろう。あの人が自分以外で城内の土いじりを許可するなんてよっぽどだ。

今やアーロン様が城の誰と親しくなっていようと不思議はないけれど、これには少し驚いた。

 

「植物の扱いというのは難しいものだな」
「苦戦されましたか?」
「ああ。だがそれ以上に楽しかったというのが大きい」

 

わたしも昔、お手伝いさせてもらったことがあったなと思い出した。なんだか泥遊びをしているような気分になるのだ。
アーロン様の表情がなんとなく無邪気に見えるのは、童心に帰ったからかもしれない。

マントと帽子をコートツリーにかけたアーロン様は椅子へ座った。準備が整ったのでわたしも失礼して座る。しばらくぶりなのが嘘のように、以前と同じ雰囲気だった。

 

「お茶はモモンの実か」
「はい。お見事です」
「こうするのは、久しいな」
「……そうですね。ご無沙汰してしまい申し訳ありません。その……、いつかのことも」

 

いつかのこと、と言うとアーロン様の表情が強張った。せっかくの落ち着いた雰囲気を壊してしまったが、このまま無かったことのようにしていいはずがない。

 

「あなたが謝る必要はない。……エストレアを止める権利は誰にもなかったのだからな」
「……」
「私こそすまなかった。エストレアの意志は誰より強いと知っていたのに」

 

苦しげに笑うアーロン様は、とても後悔して、すごく考えて、その果てに今の答えを出してわたしに謝ってくれたのだということがよくわかった。

 

「すまない、知った風なことを言ってしまったな」
「いえ……」

 

知った風も何も、そのとおりだから気にしていない。
アーロン様が少しでもわたしのことをわかってくれたのだとわかっただけで充分だ。
お互いに小さく笑うと、ふっと気持ちが軽くなる。それに、とアーロン様は続けた。

 

「どれだけご無沙汰しようと、この時間を空けておいたのは私がそうしたかったからだ。エストレアが気に病むことじゃない」
「本を、あんなに積み上げる程にですか?」

 

わたしが机のほうへ目をやるとアーロン様は苦笑した。

 

「ああ。他にやることが無かったからな」

 

きっとその博学ぶりに拍車がかかっていることだろう。
そして、アーロン様が意図してこの時間を空白のままにしてくれていることがわかって、それが嬉しかった。

会っていない間に何があったか、他愛ない報告や雑談をしながらお茶を飲んでいる中、アーロン様が話題を切り替えた。

 

「時にエストレア。波導というのが何かわかるか?」
「え? えーと……」

 

質問が唐突過ぎてすぐには答えられなかった。

 

「目で見えずとも周囲を感じ取る力、でしょうか」
「半分正解だ」

 

つまり残り半分は違うということだ。わたしの波導の知識がいかに曖昧だったかがよくわかった。

正確には、波導というのは全ての物質が持っている固有の振動のことであるらしい。もしくはそれは操る技術そのもののこと。

それを使いこなす者が波導使いと呼ばれることは知っている。わたしはアーロン様とルカリオしか該当する者を知らないが、誰にでもできるわけではないことはわかる。
しかし今までそんな詳細を話したことはなかったのに、突然どうしたのだろう。

 

「エストレアも使えているようだが」
「え……?」

 

耳を疑った。まさか。そんな馬鹿な。
アーロン様に視線を向ける動作がひどくゆっくりになった。

 

「新しい冗談ですか?」
「やはり自覚はなかったか。では、一つ実例を挙げよう」

 

アーロン様は持っていたカップをソーサーへ置いた。

 

「以前リーン様に付いて、私が隊の訓練を見た時があっただろう?」

 

そこでまた、まさかと思った。そこまで言われると心当たりなるものが思い浮かぶのだ。

 

「模擬試合の途中、エストレアが目を閉じた状態だったのは私の見間違いだろうか」
「いいえ……」

 

思い出す。あの時、わたしはたしかに目を閉じていた。そんな自分に驚きもした。
ほんの一瞬のことであったから自分自身でもよくわからなかったし、周りの人は誰も気づいていなかっただろう。

しかしアーロン様はそれに気づいていて、しかも今の言葉と話の流れから、つまりはそれが波導を使っていたということだと示唆している。

 

「あの時、どのように見えていた?」

 

目を閉じていたと知っているのに「見えていた」と訊かれるあたり、すでに認めざるを得ない。

 

「……周りが急に白黒というか、灰色のようになって……顔までははっきりしませんが、人や物があるというのはわかりました」
「そうか」

 

あの時見たことをそのまま伝えると、アーロン様は頷いて、カップに残っていたお茶を飲み干して立ち上がった。

 

「エストレア、動けるか?」
「え、はい」

 

つられてわたしも立ち上がる。あとに付いていき、そのまま部屋を出たところでアーロン様と対峙する。何をするのだろう。

 

「以前ルカリオと組み手をやっていたな。それと同じようにかかってきてくれ」
「え!?」

 

言いつつ、アーロン様は手に持っていた布で自身の目を覆い隠した。
動けるか、という問いかけはこういう意味か。しかし、まさか目隠しした状態で格闘をやるというのだろうか。

 

「しかし……」
「手加減はしないでいい」

 

躊躇いがちに口を開くも、アーロン様からの発言は少々聞き捨てならなかった。
それはつまりわたしが手加減せずに全力でやったとしても、目隠し状態で対応できると言っているのだ。さすがに、いくらなんでも軽視し過ぎではないだろうか。そこまで言われたなら。

リーン様の護衛という新たな役割を持つ今は、普段から兵としての服装をしているので動く分には問題ない。腰に携えている剣は外してよけておく。
小さく息を吸ってこきり、と肩を鳴らす。顔の前に腕を上げ、少し腰を低くして構える。

 

「では……、行きます」

 

アーロン様が頷いたのを見て、足を踏み出した。
鳩尾を狙うが交差するように腕に阻まれた。すばやく離れて間合いを取り、足を振り上げてもそれは避けられる。
それならこれはどうかと、地面に手を着いて体を思い切り宙へ持ち上げる。その勢いのままに足で肩を狙うもこれも避けられた。体をひねりながら地面へと足を着け再び構える。

 

「いい動きだ」

 

アーロン様は目隠しをしているが、私の動きに感心したように口元に笑みを浮かべた。
攻撃を当てられない。かわすか受けられてしまう。アーロン様の視界は防がれているというのに。

いや、視界が開けていまいと関係ないのだろう。アーロン様はわたしの動きが「目で見えてはいない」が「わかる」のだ。「見る」のとは違う、物体を感知する能力。つまりこれが、波導の力だ。

理解した。それはわかった。だけど一度も攻撃を当てられないのは単純に悔しい。小さくしょぼくれてしまう。
目隠しを外したアーロン様は何でもない事のように笑った。わたしも、今のアーロン様のようにできるのだろうか。

 

「波導がなんたるかについて、少し実感してもらえただろうか」
「……本当に、わたしにもできるのでしょうか?」
「素養は人それぞれだから、やってみなければわからないことも多い」

 

しかしながらわたしにここまでするというのは、やってみる価値はあると判断してくれたということだろう。

 

「決して強制はしないが、どうする?」

 

訊かなくてもわかっていらっしゃるだろうに。煽られているのかはわからない。それでも、本当にこれが使えるというならば。

 

「ぜひ、ご指南をお願いします」