ケインさんは、キスをしてくれる時にモノクルを外す。最近になって気が付いたことだった。
ふわふわと触れていた感触が、唇から離れていった。
閉じていた目をゆっくり開けると、こちらを見て細められるグレーの瞳と視線が交わる。
ああ、もう終わりなんだ、などと思ってしまった私は淑女とは程遠い女だと思えてしまう。キスが終わってしまうのをこんなに残念に思うようになったのは、きっとケインさんのせいだ。
私はよほど名残惜しそうな顔をしていたのか、彼は小さく笑って頬に口づけてくれる。
「そんな風に、悲しい顔をしないでください」
「……ごめんなさい」
「ああ、失礼。責めているわけではありません」
ケインさんは穏やかに、しかしながらも艶っぽい声を私の耳に送り込んだ。
「あなたにそういう表情をされると、なかなか自分を抑えるのが難しくなりますから」
その言葉に顔が熱くなる。思わず彼の服を強く握ると、私の反応に微笑んだケインさんは外していたモノクルを付け直した。
モノクルを付けてしまったから、キスをする時間は本当にもう終わりだ。それがわかったけれど、今しがた言われたばかりだから悲しい顔はしないようにしたつもりだった。
*
食堂で食事をしていると、後ろから声がかかった。
「ナマエさん、お隣をよろしいですか」
声のほうを見上げるとケインさんが立っていて、もちろんどうぞと一も二もなく返事をした。ありがとうございます、とケインさんは隣の椅子へ腰かける。
食事をしながら他愛のない会話をして、よければ今度ご一緒に、なんて次のデートの約束をナチュラルにしたり。
お互いの食事が済んでカップの飲み物も空になり、そろそろ会話も切り上げて席を立たなくてはいけないなぁと思った。できれば、食器は片づけたとしてもお茶のおかわりをもらって、もう少しケインさんと話をしていたかった。
するとケインさんは、何かに気付いたように徐にモノクルを外した。
「……ぁ」
声と言うにはあまりにも小さ過ぎる音が口からこぼれて、咄嗟に俯いた。同時にそわそわとした気持ちが湧きあがってきて、手に持っていたカップの取っ手を無意味にいじる。
しかし、少し経っても何も起こらなかった。あれ、と思うと同時に「ナマエさん?」と呼ばれて隣を見やる。
「どうかしましたか?」
ケインさんは不思議そうにこちらを見つつ、汚れを拭き取ったらしいモノクルを付け直した。それを見て、一気に顔に熱が集中した。
私はとんだ勘違いをしてしまったようだ。何を考えていたのだ。
ケインさんがモノクルを外したから、ああキスされるんだな、なんて疑うことなく思ってしまっていた。ケインさんがキスしてくれる時はいつもそうだったから。
……自分が恥ずかしい。冷静に考えてみればここは食堂だ。場所もそうだし、当然ながら私たち以外にも人はいる。
そんな人目のあるところで、ケインさんがキスする訳ないじゃないか。私だってそれは遠慮したい。
「あ……、な、なんでもないです……!」
顔の前で手を横に振り、ごまかすように笑ってみるとケインさんは首を傾げた。しかし、ああ、と気が付いたように微笑む。
「何か……期待、しましたか?」
その言葉に、見事に見透かされたのだとわかって余計に羞恥と申し訳なさが増してしまった。英国紳士の彼に比べて、不埒な私といったら。
「い、いえ……何も……」
「そうでしょうか。……いえ、失礼。ここで訊ねることではありませんね」
それなら、とケインさんの手が私の手に重なった。
カップから手を外されてそっと握られる。そのまま手が引かれたと思うと、音も立てずに指先にケインさんの唇が触れた。驚いて手が震える。
人目を気にしたのだろう。一瞬でそれは終わったけれど、なんだかとてもいけないことをしてしまったような背徳感があった。
「……ナマエさん」
「あ、はい……っ」
呼ばれるや否や、ケインさんは突然に急いだように食器に手を伸ばした。私と自分の食器を重ねて、同じように重ねたトレーにそれらを乗せてしまった。
片手でそれを持ったケインさんは立ち上がる。もう片方の手で私の手を握ると、立つことを促すように手を引いた。
「移動しましょう」
「え……?」
さぁ、と手を引かれて立ち上がり、ケインさんは食器を当番の人へ渡して食堂を後にする。
手を引かれるままに歩いている私がかろうじてケインさんと呼ぶと、こちらを振り向いてくれた。
「あの、どこへ……?」
「あなたとふたりになれる所です。……英国紳士として恥ずべきことかもしれませんが、あなたのご期待に、私も応えたいので」
そう言ってケインさんは、微笑みながらモノクルを外す。
それが何を意味しているかは、私はとてもよく知っていた。