ノンファンタジー

マスター、と呼ばれて顔を上げると、シャルルはそっと額に口づけてきた。そのまま目元、頬、口元と下がっていき、ついに柔らかく唇同士が触れ合った。
目を閉じて静かにそれを受け入れる。せめてもの応えに、シャルルの背中に腕を回す。少しでも、伝わるように。シャルルも同じように私を抱きしめてくれる。もう片方の手は、愛おしむように髪を撫でてくれる。
唇が離れて目を開くと、シャルルは少し困ったように眉を下げた。言いたいことはわかったけれど、私も同じように眉を下げる。

 

「……マスター、俺、」
「シャルル」

 

そっと彼の唇に、人差し指を押し当てる。懇願するように、彼の名前を呼ぶ。シャルルは困ったように笑っている。しかし少し泣きそうなようにも見えて、その表情に胸が抉られたような気持ちになった。でも私もシャルルもわかっているのだ。

 

「……ありがとう、シャルル」
「ちゃんと、伝わってる?」
「うん。大丈夫。わかってるよ」

 

頷いたシャルルは、私を完全に包み込まんとばかりに強く抱きしめてくれる。私もそれに応えたかったから、背中に腕を回してしっかりと抱きしめた。
とても温かくて、いつまでもこうしていたい。
いつまでも、なんてことは物理的に叶いっこなくて、例えば今日という一日をこうして過ごしたいと思っていても、それは現実では不可能なのだ。

どうしたって、触れ合わせた体を離さなくてはまともに動くことすらできないのだから。そんな、現実的な問題がある。だから、いつまでも、というのはある種ただのファンタジーでしかないのだ。わかっている。知っている。
それに私は、決して物語のお姫様になりたいわけではなかった。王子様を待っていたわけではなかった。だからファンタジーな夢などどうでもよかった。しかし今この時だけは、シャルルの肩に頬を付けながらぼんやりと思う。

あなたと幸せになってみたいと。
叶うかどうかなんてわからない、途方もない、物語よりも現実味がない夢を見ていたい。そう思ったりもする。

 

「シャルル……」
「うん……? なぁに、マスター」

 

優しい声に導かれるように首を動かして、シャルルの頬にそっとキスをする。シャルルは驚いたように私を見た。

 

「もう一回、キスしてくれる?」

 

シャルルはまた困ったように、悲し気に眉を下げたけれど、そこには確かに喜びも混ざっているというのはわかるのだ。

 

「もちろん。俺も、何回だって君にキスしたい」

 

穏やかな声で紡がれる甘い言葉は、こんなに耳に心地いい。言われるほうは、少し照れる。
頷いて見せると、シャルルと名前を呼ぶ前に唇が触れ合った。
わかっている。こうして抱きしめて、キスしてくれるだけで、ちゃんと充分過ぎるくらいに伝わっている。目いっぱいの恋心と、溢れんばかりの愛情を。

私のそれも、同じくらいシャルルに伝わっているだろうか。
だけども一度も言ったことはない。言われたことはない。
私たちはわかっている。いつか遅かれ早かれ別れが来ることを。
その時に悲しくならないように、寂しくならないように。言葉を告げずにいる。
本当は、きっと言葉にしたほうがお互いに幸せなのだろうけれど。こんなにも抱きしめてキスをしておいて、いったい何を今さらとも思う。しかし最初にもう決めてしまったから。約束したから。私もシャルルも、言いたいけれど言わないのだ。

マスター。
シャルル。

呼吸の合間に離れたわずかな隙間で、掠れる声でお互いの名前を呼ぶ。
馬鹿なことを。本当に馬鹿。けれども、言わなくて、言えないけれども確かに通じ合っていると思っていたいから。

だからね愛しいシャルルヴィル、愛してるなんて、言わないでね。