どこまでもいつまでも、

※2022年5月現在、公式からは一切描写されていない捏造率120%の話。

 

 

部屋は暗かった。窓から月の明かりが入り込んでいる以外、明かりはない。
消灯時間もとうに過ぎた深夜、目が覚めた私はぼんやりとしたまま動き出す。

朝でもないのに、そんな必要はないのに。顔を洗い、髪を整え、制服に袖を通して軍帽を被る。いつも通りの動作ゆえに、それによって心が引き締まるというのは、今の私には起こり得なかった。

UL96A1からマークスが召銃されて以降、私の護身用にと支給されたハンドガンの状態を確認する。弾倉が入っている。撃てば弾丸が放たれる。当然の理屈だ。
ベルトに付随するホルスターにハンドガンをしまい、ゆっくりと部屋の扉を開ける。

暗い廊下を、ゆっくり進む。特別意識しているわけでもないのに、不思議なくらい、私の歩みは音を立てなかった。
寮を出た。外の空気はひんやりとしていて、首筋や指の間をすり抜けていく。寒い、とは感じなかった。そんなこと、何も思えなかった。

静かに息を吐きながら、またゆっくりと敷地内を歩いていく。
私はこんなに歩くのが遅かっただろうか。そう思うくらい、歩みはゆっくりとしていた。体が重いわけではない。体が動かないわけではない。
それなのに、胸の真ん中だけがやたらと気持ち悪かった。
何かに押しつぶされそうな、何かが蠢いているような。まるで蠢く何かが私の心臓を喰らっているのではないかと思えてしまうような、そんな、気持ち悪さがあった。

気持ち悪い。吐き気がする。──人間の愚かしさに反吐が出る。
そんなことを思った途端、胸が苦しくなりせき込んだ。ああ、最近よくあった症状だ。
なんだか最近、嫌な気持ちを抱くと胸が苦しくなったりせき込んだり、吐きたくなったり、そういったことがよく起こっていた。

咳が治まってから、また歩き出した。ここに、いたくない。その時私は初めて明確にそう思った。
誰もいない、夜の中を歩いて辿り着いたのは立ち入り禁止の東門だった。

私にとってはヴィヴィアンを失った嫌な思い出のある場所だ。
しかし私は門へと近づいて行った。いろいろな考えが頭を巡る中で、また胸が気持ち悪さを訴えて、せき込んだ。
思わず身をかがめて地面へと膝を着ける。

 

「マスター!」

 

口元に手をやりながら、後ろから聞こえた声は耳がしっかり拾い上げた。

 

「マスター、大丈夫か!?」
「マー、クス……」

 

駆け寄ってきたのはマークスだった。
彼は私の傍に来て迷わず本体を地面へ置くと、自分も膝を着いて私の背に手を当ててさすってくる。

 

「呼吸が苦しいのか? 俺は何をすればいい?」

 

どうして彼がここにいるのか。そう思ったけれど今は答えられず、大丈夫という意味を込めて首を横に振った。
少し経ってからようやくせき込みは治まり、息を吐く。

 

「マークス……、どうしてここに?」

 

訊きたかったことをようやく口にする。……まぁ、私が言えたことではないのだけれど。

 

「マスターが、寮の外にいるのが見えたから……」

 

それ以外になんと言えばいいのか困ったようなマークスの様子に、そっか、と相槌を打った。まさかこんな時に彼と会うとは予想していなかったけれど、私はゆっくり立ち上がる。

 

「寮に戻って、マークス。私は、行かなきゃいけないところがあるからまだ戻れないけど」
「そうなのか……? マスターが行くなら、俺も行く。そのほうがマスターを危険から守れる」

 

ああ、そう言うと思った。
どうしてこんな時間に、とか、こんな場所でどういうことか、とか、マークスにとってそういったことは重要ではないのだ。
未だ膝を着いていて、私を見上げるマークスの瞳には迷いも疑問もない。

 

「ううん、大丈夫だから、戻って」
「でも……」
「一緒に来て欲しくないんだ」

 

そう言うと、マークスはざっくりと傷ついたような顔をした。
マークスが一緒に来ると言ってくれるのは、彼からの親愛を感じられて嬉しい。でも一緒には行けない。
──私はもう、闇に魂を売ったのだ。

いろいろな国で、貴銃士たちとそのマスターを見て来た。国ごとにそれぞれの事情があることも知った。その中で、人間たちの薄汚い思惑やエゴイズムがあることを知った。
自分たちの勝手で偶像的に、象徴のように貴銃士を召銃しておきながら、絶対高貴に目覚められない場合、人間からの期待は例外なく彼らを追い詰めていた。どの国にも、そんなところがあった。

人間の身勝手さを思い知った。そしてその『人間』には私自身も含まれていることを思い知った。
私だって人間だ。貴銃士たちを自分なりに大切にしてはいても、人間という枠から私は出られない。
そんな中で、自分でも気が付かないうちに私の精神は荒んでいき、すり減っていた。

様々な国で結果として貴銃士たちを救い、絶対高貴に導くことができていても、すばらしいマスターだと評価をされても。
結局私だって貴銃士たちを追い詰める、その存在と力を利用する『人間』側であることは変わらない。

苦しむ貴銃士たちを見る度に、それを救い相対的に評価を受ける度に、何を勝手な、と人々に思う気持ちは加速した。そして貴銃士たちから慕われるような感情を向けられる度に、私は苦しくなった。
私だって、君たちを追い詰めてしまうような人間と同じ側なのに。

あなただけは、君だけは、お前だけは、マスターだけは違うと。
そういった彼らの気持ちを垣間見る度に、私は私であることを辞めなければいけないような気がした。
私は『私』ではなく、清廉潔白な『マスター』であらねばならないのだと思うようになった。きっと彼らに、そんなつもりはなかったのだとわかってはいても。

もうここに、士官学校にいたくないと思うほどには私は日に日に苦しくなった。
そして今日、先ほど目が覚めた私は、もうここにはいたくないと心の底から思ったのだ。

貴銃士たちをエゴで苦しめる人間なんて、みんないなくなってしまえばいいのに。私が貴銃士たちにできることなんてたかが知れているのだから。そんな風に思うくらいには、もう全てを諦めて投げ出していた。
だからもう、ここにはいられない。人に対して、貴銃士に対してそんなことを思ってしまう私は、ここにいることは相応しくない。

期待も信頼も全てを裏切って、投げ出して、一人で出ていくつもりだった。
でもあろうことか、マークスがここに来てしまった。彼を連れて行くわけにはいかない。

 

「私はもう、ここにいられないし、いたくない。いろんなところが、痛いんだ。苦しいから、嫌なんだ。……お願いだから戻って、マークス」

 

私が愛銃である彼にできる最後のことだった。
マークスに余計なことは背負わせない。マークスには日の差すところで過ごして欲しい。私が彼にしてあげられることはもうそれしかなかった。

 

「マークスは、こっちに来たらだめなんだよ」

 

私と同じところまで来てはいけない。闇に呑まれて疲弊した私のようになってはならない。

 

「マスターは、ここにいるのがつらいのか?」
「……、……うん」
「ここにいたら、マスターは苦しいんだな?」
「……うん。だから、」
「それならやっぱり、俺もマスターと行く」

 

そう言って、地面に置いていた本体を手に取るとマークスは立ち上がった。

俺はマスターが傷ついたり、苦しんでいるのを見たくない。
ここにいてマスターが苦しむなら、そんな場所にはいないほうがいい。俺はマスターを守るために、助けるために戦ってるんだ。
その理由がないなら、俺にとって戦う意味はない。
マスターが苦しまないならそれでいい。マスターがいないのに、俺が士官学校にいる理由はない。

 

「マスターが苦しまないで済む場所に行くなら、俺もそこがいい。俺も連れて行ってくれ」
「……だ、めだよそんなの! マークスはここで、」
「俺がいたいのは士官学校じゃない。俺はマスターといたいんだ」

 

それはあまりにも。
人としての倫理観で考えるなら、あまりにも身勝手な言い分だった。
私以外のことはどうでもいいと、私が苦しまないで済むならそれでいい、そのためなら所属も立場もなんだっていいし、捨てたって構わないのだと。

全ての中心に私を据えたその考えは、きっと、人としては許されない間違った思考なのだろう。
けれども今の私にとっては、何よりも響く言葉だった。

 

「ぁ……」

 

ただ素直に、真っ直ぐに私を慕うマークスを前にして、勝手に涙がこぼれた。
声を上げてはいないのに、広げた掌の上にぽたぽたと水が落ちてくる。

 

「マスター……!? どこか痛いか? 薔薇の傷が痛むのか?」
「うう、ん。違う、違うよ……大丈夫だよ」

 

身をかがめて私の顔を伺うマークスに、泣きながら笑って言葉を返した。
人として、士官候補生として許されないことをしている自覚があった。だから私は誰かに否定されることを恐れた。そんな奴だとは思わなかったと、そう言われることに怯えた。

けれど、私がどんな状態であろうとも、私がどこに行こうとも、マークスは私の全てを許したのだ。
今の私にとって、それがどれほどの喜びであったかなんて、マークスに自覚はないのだろうけれど。

 

「……私、もうここには戻らないんだよ?」
「ああ。マスターが苦しまないならそれがいい」
「私と来たら、マークスだってきっと悪く言われるんだよ?」
「他の奴らの言い分なんてどうだっていいんだ」
「これからマークスに、大変な思いさせるかもしれないよ」
「マスターといられるなら、俺はそれでいい。あ、いや……俺が大変になるのはかまわないが、マスターが苦しむのは嫌だな……」

 

どこまでもどこまでも、私を中心に置いて私を許すマークスを、本当はどうしたって止めなければならないのに。
でも今の私にはもう、そんなことは不可能だった。マークスを止める理由すら、もうなくなってしまっていた。

ああ、おかしい。私はおかしい。
マークスも大概だ。それならおかしい者同士でどこまでだって行けるのだろう。そんなことを思ってしまう。
涙を拭って、マークスに右手を差し出してみる。

 

「私の行く先が、地獄でも?」

 

相変わらず薔薇の傷が刻まれた手は、なぜか少し血が滲んでいた。今は血も痛みもどうだってよかった。

 

「もちろんだ。マスターが行くなら、俺は一緒に行きたい」

 

私から差し出された手を素直に喜んだのか、マークスは笑みを浮かべながら手を重ねてくれる。もう、それで最後だった。

 

「ありがとう。ありがとう……マークス」

 

こんな私を許してくれてありがとう。巻き込んでしまってごめんなさい。
ここまでしてくれるマークスのことを、私も彼の全てを許していた。

 

「一緒に、行こうか」
「ああ」

 

東門を開けた。
そういえばあの日、ヴィヴィアンを失いマークスに初めて会った日も、こんな美しい月夜だった。
あの日からまったく変わらず、彼は私を大切にしてくれる。

 

「……マークス」
「どうしたんだ?」
「ううん。ごめん、なんでもないよ」
「そうか」
「手を、離さないでてもらえると嬉しいな」
「わかった。俺も嬉しい」

 

私の手を握りながら屈託ない笑顔を向けてくれる。
そんなマークスと一緒に、私は月の光すら届かないような場所へと歩いて行く。

そうして私たちは闇に紛れていった。
確かに暗闇が広がるのに、最後に見上げた月はどうしたって美しかった。