さざ波の水中に一人

そろそろ来る頃だろうかと、アーロンは本から視線を外した。

すでに半ば習慣となったせいか、体内時計には彼女が来る時間が組み込まれたらしい。いつもなら、ちょうど窓を見たタイミングでエストレアの姿がそこにあるのだが、今日は違った。誰もいない。
太陽の位置はいつものお茶の時間と同じ位置だった。アーロンの体内時計がずれたわけではないらしい。

内容も頭に入ってこなかったので、しおりを挟んで本を閉じた。
ルカリオにはこの時間はウインディと共にいる習慣ができたため、部屋にはアーロンしかいない。

 

「……静かだな」

 

耳が痛いほどに。
人は決められた習慣がずれると、途端に違和感を感じるらしい。アーロンは閉じた本で無意味にページをぱらぱらといじった。
昨日の夜、エストレアと会った時を思い出す。

 

『敬意は人を特別という場所に位置付ける。でもそれは、徐々にその人を孤独にすることもある』

 

城の人たちが自分に向けてくれるのは、敬意なのか敬遠なのか。それが少しわからなくなっていた。

波導使いという肩書きがあるとはいえ、アーロンは城において特別な地位を与えられているわけではない。他の人と何も変わらないはずなのに。アーロンにとって、特別視されることは疎外感や孤立感へとつながっていた。

それでも……あんなことは言うべきではなかった。昨日の自分は何を考えていたのか。
彼女本人は気づいていないようだったが、あの瞬間の、思いつめたような表情が目に焼き付いている。彼女はアーロンの言うことの意味がわかったのだろう。
そして傷つけてしまったかもしれない。あの言い方では、彼女の敬意も疑っているように聞こえてもおかしくない。

そんなこと、確かめるまでもないことだ。あの人からの特別視が敬遠ではなく、純粋な敬意であることくらい。
アーロンは自分の髪をくしゃりと掴んだ。今日も来てくれると昨夜言っていたが、昨日の今日だ。敬意を疑った相手のところになど、来る気が失せるに決まっている。
遅れているのではなく、今日からはもう来ないのかもしれない。

彼女はアーロンが見回りすることを珍しいと言っていた。城の見回りを下っ端の仕事だと思うほど、自分は高い地位にいるわけじゃない。波導使いだから特別だ、というのは特別視の独り歩きだ。

それが嫌だったのか? 私は。エストレアの特別視も、結局は敬遠のそれだと思ったのか?
そうじゃない。それは違う。彼女がアーロンを敬遠したことなど一度もなかったということはアーロン自身、身に沁みてわかっていた。これはただの被害妄想にしかならない。

しかしながらそうだとしても、だ。馬鹿なことをした。彼女が何をしたというんだ。
アーロンが勝手に不安を抱いていて、それに対して彼女はきっと自分を敬遠してはいないだろうと勝手に希望を持っていた。それについてはおそらく間違っていない。

 

『珍しいか?』
『はい。わたしにとってはとても珍しいです』

 

そう言われた瞬間、彼女も敬遠の意味で自分を特別視していたのではないかとアーロンは勝手に失望した。自分勝手も甚だしいと我ながら思う。

 

「すまない……」

 

あんな表情をさせたいわけじゃなかった。そうは思っても後の祭り。
つぶやきの一つ一つがやけに部屋に響く。この時間、部屋にいるのが自分だけでよかったと心底思った。そうしてため息をついた時だった。

 

「……っ」

 

ノックの音が響いた。間違いなくノックされているのはこの部屋である。
決してルカリオではない。同じ部屋を使っているのだから、ノックはしなくていいと彼には言っている。ルカリオ以外で、しかもこの時間にここを訪れる人は一人しかいない。

 

「どうぞ」

 

いつもと同じように返事ができているか不安になったが、アーロン的にはいつも通り、と思いたいところである。
扉が開いて、いつものようにエストレアが顔を覗かせた。

 

「失礼いたします、アーロン様」
「ああ、いらっしゃい」

 

このやりとりもいつも通り。

 

「遅れてしまって申し訳ありませんでした。……いつものように窓から中を拝見したのですが、考え事をしていらっしゃるようでしたので」
「それはすまなかった。大丈夫だ、かまわない」

 

今日のノックが突然だったのは、アーロンがエストレアに気づかなかったかららしい。
微笑んではいるが、なんとなく表情は硬いように見える。それが単なるアーロンの思い込みによる補正がかかっているだけならいいのだが、今のアーロンにその判断はつけかねた。
すでに見慣れたバスケットがテーブルに置かれたが、エストレアは座ろうとしない。

 

「……どうした?」
「アーロン様、お茶の前に少し庭に出ませんか」
「お茶が冷めるんじゃないか?」
「今日はアイスティーにしました。元々冷めているので問題ありません。いかがでしょう」
「……わかった、出よう」

 

エストレアの提案の意図はわからなかったが、お互いに心境がいつもどおりではないこともある。このまま部屋にいるのはあまりいいことに思えなかった。

 

「アーロン様、この花の名前をご存知ですか?」

 

歩いていた足を止め、彼女は指差した。細長い葉の間から長い茎が伸びた先に、黄色い筒状の小花が集まって小さい玉のような花が咲いている。

 

「いや、知らないな。何というんだ?」
「クラスペディアです」
「クラスペディア……」

 

アーロンは言葉をそのまま繰り返した。

 

「アーロン様に少しお教えできるくらいには、花のことに詳しくなりました」
「そうか、教授してもらえるのはありがたい」
「あ、ですが、城に植えてある植物限定なので無茶な質問はご遠慮くださいね」
「おっと。先に予防線を張られたな」

 

よかった。先ほどよりは自然に話せている。
アーロンにとってそれは単純に良いことで、あのまま二人で部屋にいたら今頃どうなっていたのかを想像するのは気持ちが沈むのでやめておく。

本当は、昨日のことを謝っておきたかった。だがせっかくエストレアが空気を変えてくれたというのに、それを台無しにすることはしたくない。
このことの礼も、昨日のことの謝罪も、どちらにしろそれを言われることはエストレアの本意ではないように思えた。

 

「では、この花は何というのか教えてもらえるか?」
「ああ、それはですね──」

 

情けないとも思ったが、今日だけはその優しさに甘えさせてもらおうと思った。