さざ波の水中から手を伸ばす

我ながら心ここにあらずだと思った。
仕事は問題なくこなしている。でも、染みつくほどに慣れたいつものことを体がこなしているだけで、わたしはどこか別の視点にいるような感じがしていた。

どうしてこうなったのかを考えると、それはわたしが間違ったことをしたから。取り返しがつかないほどに、決定的に間違えた。
アーロン様に身勝手に八つ当たりをして怒鳴りつけて、あんな顔をさせてしまった。

すぐにでも謝りたかったが、自分の心の整理をするので精一杯だった。
仕事の合間に会いに行こうにも修行に行っていたり、部屋にいらっしゃらなかったりで会えない。唯一確実に会える時間も、ジゼルさんといるのだと思うと足が進まない。

会いに行こうと考えて外に出ても、こうして座り込んでいることしかできないのが情けない。
ウインディにも、ルカリオにも言えない。彼らでは距離が近すぎて言えない内容だ。

 

『様子がおかしいとは思っていましたが……』

 

言えないと思いつつ、偶然通りがかったルカリオをつい捕まえてしまった。
核心の部分はとてもじゃないが言えないので、アーロン様と揉めてしまったと当たり障りのないことを言った。ルカリオは少し黙ったが、再び口を開く。

 

『申し訳ありませんが、私には何かを解決することはできません。エストレア様のことはエストレア様しか解決できないのですから』
「うん……そうだね」

 

ルカリオの言うことは正しい。
結局は、わたしのことはわたしがなんとかするしかない。取り返しがつかないほど間違ってしまったとしても、自分で間違いを修正するしか方法はないのだ。それはわかっていた。

膝を抱えてかつてないほど小さくなっているわたしに、ルカリオは少し戸惑っている。彼にとって非常に居づらい空気だろう。
しかし、独りになったらまた振り出しなので、今は何でもいいからルカリオに何かを言ってもらいたい。

 

『失礼ですが、揉めた発端はどちらだったのですか?』
「わたしのほう。揉めたといっても、わたしが一方的に八つ当たりしてしまったっていうのが正しいかな……」

 

アーロン様は何も悪くない。何があった、とわたしを心配してくださっていたのに。

 

「わたしがいらいらしてて、アーロン様には関係ありませんって怒鳴ってしまったの」

 

自分の失態を話すのはとても痛い。
アーロン様は怒っているだろうか。軽蔑されたかもしれない。会うことすら無理かもしれない。そんな考えが余計に足をすくませる。

 

『そうなると……おそらく、もうアーロン様から声を掛けることは不可能でしょう』
「……そうだよね。それだけアーロン様は怒っていると思うし」
『いいえ』

 

これはもう修復不可能だと思った矢先、否定が飛んできて思わずルカリオを見た。

 

『アーロン様がお怒りかどうかは、私では判断つけかねますので何とも言えません。……もしエストレア様が逆の立場だったとしたら、その後、声を掛けられますか?』
「逆……?」

 

わたしとアーロン様が逆の状況というのは、アーロン様から「エストレアには関係ない」と言われるということだ。それを考えてから、黙って首を横に振る。

 

「できないよ」
『なぜですか?』
「なぜって……関係ないとまで言われたら、たとえ話をしたくても声なんて掛けられな、」

 

あ、と途中で気づいて、口をつぐんだ。最後まで言うことはできなかった。ルカリオは小さく頷く。

 

『推測にしかなりませんが、今のアーロン様はそのような心境でいらっしゃるのではないでしょうか』

 

アーロン様が実際にどう思っているかはわからないので、わたしは黙っていた。

そして気づかされた。だからこそ、わたしが動かなければ本当に何も解決しないのだと。
逆の立場だったら、わたしはもう自分から声を掛けることなどできない。仮に勇気を出して話しかけても、また拒絶されたらと思うと、怖くて無理だ。

 

「でも……」

 

でも、アーロン様が同じように思っているとは限らないではないか。

 

『アーロン様も、エストレア様と話をしたいのではないかと思いますが』
「どうしてそう思う?」
『なんとなくです』

 

あまりにも不確定な答えが返ってきて、思わずルカリオを見て呆けてしまった。
しかし、ああ、たしかにその通りだなぁとその答えが妙に腑に落ちた。

 

『エストレア様?』
「あ、ごめん、大丈夫だよ。……うん、そうだね。なんとなくか」

 

曖昧な答えをしたルカリオは間違っていない。なんとなくしかわからなくて当然だ。言わなければ、何をどう思っているのかなんて伝わらない。

わたしが勝手に塞ぎ込んでいたから、アーロン様もわたしがわからなかった。だから話をしようとしてくれた。
今アーロン様がどう思っているか。動かずにここにいるわたしがわかるわけがない。

アーロン様と話をしたい。きちんと謝りたい。
そう思えて、立ち上がって背筋を伸ばす。

 

「ありがとうルカリオ。おかげで元気が出た」
『お力になれたならば何よりです』

 

そういえばウインディを待たせていたというルカリオに引き止めたことを詫びて、彼を見送った。

アーロン様は部屋にいらっしゃるだろうか。そうだとしたら、ジゼルさんと一緒にいるのだろうか。
また少し重いものが湧き上がるが、そこは今考えても仕方がない。

アーロン様と話しをする努力をしよう。
好かれるためではなく、わたしがアーロン様を好きでいるために、関係を修復する努力をしよう。壊れた状態のままで好きでい続けるなど、ムシが良すぎるから。

アーロン様のところへ向かおうと、階段を過ぎて通路に差し掛かったとき、前方から歩いてきた人物にわたしは足を止めた。

 

「ジゼルさん……」
「ああ、エストレアさん」

 

アーロン様の部屋に行っていたと思われるジゼルさんは微笑んでいたが、わたしを見て何かを決めたように表情を引き締めた。

 

「少しお話したいのだけど、よろしいかしら」
「はい、もちろん」

 

わたしが一方的に気まずいことは、わたしの勝手な都合だ。それは彼女を否定する理由にはならない。
ジゼルさんは真っ直ぐにわたしを見据えた。

 

「エストレアさん、アーロン様を諦めて」