※マスターではない。
「八九さん」
見つけた姿に声をかけると、呼ばれた本人は振り向いた。私を見てちょっと首を傾げる。
「え、と……悪いな、あんたのこと知らないけど、どこかで会ったか?」
「あら、いつもの着物と化粧じゃないとわかってもらえないなんて悲しいですよ?」
そう言ってみると、八九さんはぱちぱちとまばたきをした後、あ、と小さく声を上げた。
「お前……十和音か?」
「ああ、よかった。わかっていただけましたか」
胸の前で手を合わせて大げさに喜んで見せる。まだ多少なりとも驚いている様子の八九さんは、とても不思議そうに私を見ている。
「いつもと全然違うからびびったわ」
「今日はね、店はお休みさせてもらったんです。だから今の私は十和音じゃありませんよ」
「ああ、悪い。ナマエだったな」
彼が最も私を認識する名である『十和音』というのは、私の本名ではない。私が働く店で使うそれ用の名前だ。
八九さんは私の本名を知らないわけではないし、かつ以前に名乗った私の本名を覚えてくれていたようだ。それが嬉しい。
「八九さん、今お時間あります?」
「んー、まぁ、少しなら平気だ」
「よかった、そこのお店でお茶とお団子でもどうですか?」
「ん、いいけど」
快諾をもらえたので、呼び止めた場所からすぐ近くのお茶屋に入って行く。注文だけを中にいる店員に伝えて、私は外にある席を勧めた。特に座る場所にこだわりはないらしい八九さんは、頷いて外にある長椅子に座った。
しばらくして先にお茶が運ばれてくる。お互いに一つずつ湯呑を手に取った。
「今日は、仕事休まないといけないと思ったんです」
「なんかあったのか?」
「ええ、大事なことがあったあので」
「……俺とこんなことしてる場合じゃなくねぇか?」
「いいえ、これが目的だったからいいんですよ」
八九さんは首を傾げた。私にとっては今日しかなかった。明日になればチャンスも何もあったものではない。
「だって八九さん、明日には日本を出ていってしまうんでしょう?」
驚いたように八九さんは目を見開き、しかし「……ああ、まぁ」などと曖昧な返事で肯定した。
このことを知ったのはつい先日だった。店を訪れていた自衛軍の方々が、そう話していたのを聞いた。もてなしをしつつも、それは本当ですかと訊ねてみれば、数日後にはもう日本を発ってしまうという衝撃の事実付きだったのだ。
「イギリスに行かれるって聞きました。知らない土地で、大変になりますね」
「あー、まぁ知らないってわけでもないけどな」
そうなんですか、と短く相槌を打った。
八九さんはイギリスが初めてというわけではないらしい。私が八九さんについて知っていることは程度が知れていて、同時に悲しく感じる距離感でもあった。
私が知っていることは、八九さんが貴銃士と呼ばれる存在であることだけなのかもしれない。あとは、少し不器用だけれど人のことをよく見ていて、異性には初なところがあって、それが関わると照れ屋さんで。
ああ、その程度しか知らなかった。もっと知りたかった。
でも、私も彼も仕事がある。そしてそもそも、こんな風に二人で会って過ごすことが気軽にできる関係でもなかった。
キセルさんを通して知り合って、仕事も含めて少し話をするようになって。顔を合わせることがあれば挨拶をして談笑をして、少し仲良くなれた気になった。
その時に会う私は、いつも仕事用の化粧をしていて仕事用の着物を着ていた。八九さんはその姿の私しか見たことがなかったから、先ほど素顔の私を見て私だとわからなかったのだ。
仕方がないことだけれど、それも寂しさを助長させた。もっと、素の私を見て欲しかったなどと思ったりしても遅いけれど。
「寂しいですね、八九さんがいなくなるのは」
「お前、店の仲間とも仲良いし、別に寂しくはならないだろ」
「いいえ、寂しいですよ。私はとても寂しいし悲しいです」
そこまで言ってから、やっぱりお団子は持ち帰りにしましょうか、と私は席を立った。店員に声をかけて、すでに出来上がっていたお団子を包んでもらう。
外の椅子に戻ると、八九さんは立ち上がっていた。私が急に席を立ったものだから、なんとなくそわそわしてしまったのだろうと思った。八九さんはそんな風に、ちょっと気にしいなところもある。
「包んでもらいました。これよかったらどうぞ」
「え、お前はいいのか?」
「私はいつでも食べられますから。八九さんは、そうもいかないでしょう?」
八九さんは遠慮していたけれど、しばらく日本の味が食べられなくなるんですよ、と強く言うとようやく受け取ってくれた。
本当は、もっともっと話したいことも言いたいこともあるのに、それをすればするほど明日がつらくなりそうだ。
そう思うと、いっそのこといつものように短い時間で逢瀬を終えたほうがいい気さえする。
「八九さん、ひとつわがままを聞いていただきたいんですが」
「内容によるけど……なんだ?」
「八九さん、もう自衛軍のほうへ戻られるでしょう? 途中まででいいので、私と一緒に歩いてくださいませんか」
「あ、おう。そんなんでいいのか?」
「もっと言ったほうがよかったですか?」
「いや、いい。邑田と在坂の無茶ぶりに比べれば楽ゲーだわ」
他の貴銃士の方々からの要求に苦労しているのか、ため息を吐く八九さんに少しだけ笑った。
一緒に歩く間も、小さなことをぽつぽつと話していく。いつもどおりの時間が流れるように。
もうそろそろ、お別れしなければならないなと判断した。そうでなければ、私が勝手につらくなってしまう。
「……じゃあ、私はここで」
「ん……? そうか」
ああ、寂しい。悲しい。
明日にはもう八九さんはいないのだ。遠い外国へ行ってしまう。
もう会えないのだ。顔を見ることも声を聞くことも、少しの一緒の時間を過ごすことすらできなくなってしまう。
贅沢にも多くを望んでいたわけではなかったのに。淡い気持ちを抱いて、このひとに会って、些細なことを話して、また今度と挨拶をして。
そんな風に、一方的でも気付かれることさえないような、ほんの少しだけの恋をしているだけでも私は満足だったのに。
私にとってのささやかな幸せすらなくなってしまうのだから、世界っていうものは残酷だ。
「八九さん、最後にひとついいですか?」
最後、と言ったところで八九さんの肩が少し揺れたような気がした。気のせいかもしれない。
握りこぶしを作るようにしながらも、小指だけを立てた状態の手を差し出す。
「私と指きりしていただけませんか?」
「え、それだけか……?」
「はい。それだけです」
不思議そうにしながらも、同じように小指を立てた八九さんの手が近づき互いの小指が引っかかる。
彼は果たして、『指きり』の意味を知ってくれているのだろうか。どうやら彼は銃としてもお若いものであるらしいので、日本製とはいえ知らないかもしれない。単純に、約束事という意味でしか知らないかもしれない。
「八九さん、約束です。私のこと、どうか覚えててください。今日お会いした、素顔の私のことを忘れないでください」
「……おう。別に、そんな簡単に忘れねぇけど」
「男性というのはいつも口先だけのことを言いますから」
「いや、ほら、最初に一発でナマエのことわからなかったのは悪かったって……」
「そこは怒ってませんよ」
ほら、やっぱり彼は気にしいだ。そして優しいのだ。
私が怒っていると思ったのか、口ごもりながら謝る八九さんに笑いがこぼれる。
徐に私は自分の頭に手を伸ばす。髪をゆるくまとめていた簪を外すと、解けた髪が肩にぶつかる。
外した簪を、小指を引っかけている八九さんの手にねじ込んでやる。
「これ、一緒にイギリスに連れていってください」
「え、これ、仕事でも使ってたじゃねぇか」
そう言われて驚いた。私が普段から使っているものであると彼は知っていたことに驚いた。同時に、この簪を使うのが私であるという認識をしていてくれたことが嬉しかった。
「八九さんに持ってて欲しいんです。お願いできますか?」
そう言った瞬間、少しだけ、八九さんの手に力こもったのが小指を通して私にも伝わった。
「……わかった。じゃあ、もらっとくわ」
はい、と頷いたところで引っかけていた小指も外した。
小指を外す様が妙にゆっくりになったのは、きっと私が未練がましく名残惜しんだから。
もうお別れしなければと思いながらも、少しでも長く指を触れ合わせていられたらと思ったから。優しい八九さんがそれに合わせてくれたから。そう思う。
背筋を伸ばして改めて目を合わせる。
「お元気で、八九さん」
「おう、ナマエもな」
「はい」
さようならとは口に出せなかった。
それじゃあこれで、としか言えなかった。
八九さんも決して重苦しい雰囲気など出さず、二人で背を向けて歩き出す。
俯いて歩いていたところで足を止めた。
ああ、やっぱりちゃんと言いたかった。まどろこしいことなんかしなければよかった。そう思ったら体は動いていた。
勢いをつけて振り返る。簪を外した髪が揺れる。
あのひとに贈った簪。私の代わり。私の一部。私の気持ちの全て。
まだ見える距離にある彼の背中に向かって声を出した。
「八九さん!」
びくりと肩を揺らしたけれど、一体どうしたと言いたそうな表情で彼は振り向いた。
そんな彼に大きく手を振る私は、鏡なんか見なくてもわかるくらいいい笑顔だったに違いない。
私を好きになって。私のことを一生忘れないで、なんて言わない。悲しいけれど、名前を忘れてしまったというならそれでも構わない。
ただ、心からあなたを好いたひとりの女が日本にいたということだけ、どうか覚えていて欲しい。
私が叫んだ言葉であれだけ顔を赤くしたんだから、きっと八九さんは、遠くへ行っても私のことを覚えていてくれるのだろう。
──私、あなたのこと大好きでした!