落下しているはずなのに、その勢いはまったく強くはない。ふわふわとして体が思い通りにいかない感覚は、水中でのそれと似ている。
「うわっ……と」
なんとか降り立った場所でも、体の重心が不安定になる。
「サトシ……っ」
「サンキュー……。体が、軽いぃ……!」
少し遅れて落下してきたサトシの手を引っ張り、地面に足を着かせる。
「ここは……」
明らかにおかしな場所だった。街の建物や植物と思しきものはあるが、縦に大きく歪んでいる。
『ここは嫌いでしゅ……! ミーを連れて逃げるでしゅ!』
シェイミは先ほどから何に怯えているのか。首を傾げたところで、鋭い声が響いた。
振り向く間もなく、自分たちの背後を何かが高速で通り過ぎた。軽くなっていた体はその風圧で前方へと飛ばされてしまう。
なんとか着地して振り向くと、見たことのない巨大なポケモンがこちらを見ていた。腕の中のシェイミが震える。
『ミーを食べるつもりでしゅ!』
「え……?」
つい首を傾げた。シェイミの生態について詳しくはないが、少なくとも何らかのポケモンから食べられるといった、捕食関係となるものはいなかったはずである。
「ピカチュウ、10万ボルト!」
「ピカチュ!」
シェイミの言葉を聞いたサトシはピカチュウに指示を出す。だが、放たれた10万ボルトは当たらなかった。不意に相手のポケモンが姿を消したのだ。
「消えた……!?」
反射的に後ろを向くと、相手はそちらへ現れた。
「ピカチュウ、もう一度10万ボルトだ!」
「サトシ、待っ、」
制止が間に合わず、再び放たれた攻撃は相手へと当たった。
「やめるんだ!」
「っ!?」
「ギラティナを怒らせちゃだめだ!」
突然目の前に現れた男に肝が冷えた。
ギラティナ……、あれのこと? ギラティナと呼ばれたポケモンが放った攻撃を、男が連れていたタテトプスがれいとうビームで迎え撃った。ぶつかり合った攻撃は爆発する。
「こっちだ!」
「あ、はい……!」
男の後に続いて、異様に歪んだ街並みの通路へと入った。
ふわふわと体のバランスが取れず、走りにくいことこの上ない。そもそも“走っている”と言えるような速度で動けていないのだ。行ったことはないが、まるで宇宙空間のようだ。
通路を抜けると、階段が下へ続いている。
「気をつけろ」
「え? ……わっ」
階段に差し掛かった途端、がくんと体に重さが降りかかってきた。
「重力の弱いところを抜けたんだ」
「ええ?」
「どうなってんだよここは……」
後ろから来るサトシに、一も二もなく同意した。
階段を下りて、建物内の廊下のような場所へたどり着くと男がこちらを振り向いた。
「怪我はないか?」
「はい、わたしたちは大丈夫です」
『食べられずに済んだでしゅ……』
「ん? お前、あの時のシェイミか?」
『お前、誰でしゅか?』
訝しげに見やるシェイミだが、助けてくれたこともあり、男に悪い印象は抱かなかった。
「俺はムゲン・グレイスランド! この反転世界を研究している。自分で言うのもなんだが、知る人ぞ知るっていう、いわゆる天才学者さ」
大げさな動きで得意げに自己紹介をするムゲンという男に、ステラの評価は少し下がった。
「自分で天才学者って、」
「言わなくてもねぇ……?」
サトシの小声に同意してあとの言葉を引き取る。『変わってるでしゅ!』と容赦なく言いはなったシェイミに、あらっ、とムゲンは苦笑する。
しかしながら助けられたことを改めて思い出し、ありがとうございました、と頭を下げた。
「俺、サトシです」
「ステラといいます。あの……反転世界って?」
「ギラティナって……?」
投げかけた質問に、よくぞ訊いてくれたとムゲンは説明を始める。
反転世界というここは、現実世界の裏側にぴったりくっついているもうひとつの世界だという。重力も所々で軽くなり、言うなれば掟破りの破れた世界だと言った。
ふたつの世界は隣り合っているのに決して交わることはない。そして、あのギラティナだけが現実世界と反転世界を自由に行き来できるという。ここにいるポケモンはギラティナだけ。
『あいつは嫌いでしゅ。ミーを食べようとしたでしゅ……』
本当にそうなのだろうかと疑問が浮かぶ。
反転世界にいるのがギラティナだけならば、ギラティナにはますます他のポケモンを捕食する理由がなくなる。
他の生き物がいないこの世界に適応しているならば、補食せずとも生きられる体なのではないのだろうか。
「あ……、お前たち、元の世界に戻りたい?」
ふと思い出したようにムゲンがこちらを指差す。
「もちろん!」
「行くところがあるんです」
『お花畑に行かなきゃならないんでしゅ!』
「だったらのんびりしていられないなぁ……」
ムゲンのバッグからアーム付きの機械が伸び、それを確認したムゲンによれば「まだ間に合う」とのこと。
「とにかく、レッツゴー!」
サトシと顔を見合わせ、ひとまずムゲンへと付いて行く。どういうことかはわからないままだが、今はこの人しか反転世界を知る者がいないのだ。
歩きながら話を聞くと、ムゲンはこの世界の研究に夢中になるあまり、もう五年もここにいるという。その年数には素直に驚かざるを得ない。
すると不意にムゲンは、ステラとサトシに止まるよう手で合図した。前方に黒い煙が漂っている。
反転世界は現実世界に歪みが起きた時、時空のバランスが崩れないよう調整する役割を持っており、そのときにあの黒い煙ができるらしい。
「あの煙は毒性があるんだ。下手をすると命に関わる。吸っちゃだめだぞ」
「いっ……。気を付けます」
歩く途中でも、時折周囲で黒い煙が新たに発生する。それを見たムゲンが静かに口を開く。
「かつて、時間と空間……出会うはずの無いふたつの次元がぶつかり溶け合ったことがある」
「時間と空間……。もしかして、ディアルガとパルキアのことですか?」
「そうだ」
「まさか! その二体は神話の……!」
「ああ、そうだな。だが、その二体は神話に登場するだけじゃない。ちゃんと実在しているんだ」
シンオウ地方に伝わる神話で知っている。
ディアルガが時間、パルキアが空間を司る神とされている。
思わずムゲンに反論しかけた。神話でしか知らないその二体が、実際に接触したということだ。まさか神話に登場するポケモンらが実在し、接触したなんて。
驚きを隠せなかったが、ムゲンの話の先を聞くことにする。
ディアルガとパルキアは、お互いが自分の領域を侵されたと思い争いを始めたという。
「それって、アラモスタウンの……」
サトシがぽつりとつぶやいた。何か思い当たることを知っているようだが、今はムゲンの説明に集中した。
その二体の争いにより時間と空間は激しく捻じ曲がり、反転世界にはあの黒い煙が大量に溢れ出たという。
そして自分の住むこの世界を汚した二体に怒り、ギラティナは現実世界に現れたディアルガをここに引き込もうとし、それに成功したらしい。が、
「シェイミのシードフレアのために逃げられてしまったんだ」
そこで気づいた。シェイミがディアルガとギラティナの争いに巻き込まれたのは、森でステラと会った直後だろう。
あの時、泉から離れての突風はそれによるものだったのかもしれない。腕にいるシェイミは、自分は悪くないといった風にむすっとしていた。
加えてギラティナは、ディアルガの力により現実世界に出られなくなってしまったのだという。
誰が悪いのか判断はつけられないが、少しギラティナに同情したくなる。
「あの、ムゲンさん、周りにある泡みたいなものは何ですか?」
「ん? ああ。あれには触っちゃだめだぞ」
先ほどから周囲に浮かぶ透明な泡には、自分たちがいたあの街の景色が映っている。ステラの質問に対し、ムゲンは神妙に注意した。
ここで物を壊すと現実世界に影響が出る。特にあの、水玉か泡のようなあれの影響は、直接的に反映されるという。
歩き続けていると再び重力が乱れたところに入ったのか、ぐにゃりと道が歪んでいく。
不意にムゲンが顔をしかめる。ギラティナが気づいたのか、再度こちらに迫ってきた。
「急げ!」
思い通りに走れない体を動かし、ムゲンへ付いて行く。
「ここだ! 入っては来られないが、まだ出られるはずだ。すぐに飛び込め!」
ムゲンが指差す先には、この世界へ入って来た時と同じ黒い陰の穴があった。ピカチュウ、サトシと続けて穴へ入っていく。
「ムゲンさんは?」
「俺はまだこっちでやることがある」
「そうですか……」
急がないと出られなくなるぞ、とムゲンから背中を押される。
「ギラティナは現実世界を見ることができる。鏡には気をつけろよ」
言葉の意味を詳しく聞く暇もなく忠告と共に押しやられ、妙な感覚の中を通る。ここが空間の狭間なのだろうか。
シェイミを抱く手に、少しだけ力がこもった。片手を伸ばすと、それが誰かに掴まれ引っ張られる。
「うわっ!」
「ステラ……!」
引っ張ってくれたのはタケシだったようで、そのまま地面に倒れ込んだ。
「戻った……?」
ポケモンセンター付近の、あのオブジェが立つ芝生だった。反転世界に引き込まれた時と同じ場所だ。
「ステラ、大丈夫!?」
「ヒカリ……、うん、大丈夫だよ」
心配そうにこちらへ駆け寄るヒカリに笑ってみせる。後ろを振り返ると、オブジェの表面からは波紋が消えた。
「どこに行ってたんだよ!」
「反転世界」
「え?」
「何、それ?」
サトシの返答に、タケシとヒカリが首を傾げる。当然の反応だ。
「ステラ、ムゲンさんは?」
「あっちに残ったよ。“鏡に気をつけろ”って……」
そう言った矢先に再びオブジェの表面に黒い波紋が浮かんだ。
どうやら鏡、もしくはそれに近いものを介して、ギラティナはこちらの世界に接触できると思っていいのだろう。シェイミが震える。
『また来るでしゅ……!』
「ここは危険だ。移動しよう!」
「ちょっとサトシ!」
「説明してくれよ!」
「移動が終わったらね」
今は安全を確保するのが優先だ。タケシとヒカリには少々待ってもらうことにして、サトシの後に続いた。