白い空間にいるような気がした。
黒い空間にいるような気がした。
灰色の空間にいるような気がした。
無色透明な空間にいるような気がした。
そのどれも正しくないような気がした。
わたしは、どこにもいないような気がした。
わたしはどこにいるのだろう。わたしはどうしているのだろう。どうして意識があるのだろう。
──わたしは生きてはいないのに。
だから何も見えないのだ。だから何も聞こえないのだ。だから何も感じられないのだ。
これが死というものか。
音も光も、何もない場所で、ただただ意識だけがある。永遠の孤独が死であるというのなら、なるほど、これほど辛いものはない。
辛いけれど、独りであることを怖いとは思わなかった。死ほど怖いものはないのだ。
自分がどこにいるかもわからない。いつまでも独りでいなければならない。
何もわからない。意識の中で、考えることをやめた時だった。
何かが顔に触れるような感覚があった。その次に、遠くにある自分の手が動いたような気がした。自分の瞼がひくりと動く感覚が起こる。
何だ? 目が開くのか? 目を開けて何がある。何も見えない。何もない。白、黒、灰色、無色……何物にも形容できない場所がそこにあるだけだ。
それなのに、目を開けたい。目を開けなければいけないと思った。
自分の意志の他に、義務とも使命感ともつかないその感情、衝動が忙しなく動き始める。
重い瞼を上げろと、命令を下した。それが実行されるには、とても時間がかかったような気がした。文字通り瞼が重いのだ。ぴくぴくと痙攣のように動くものの、なかなか上がってこない。
「……うっ!?」
瞼がようやく上がった時、ひどい眩しさを感じた。せっかく上げた瞼がまた閉じてしまう。
なんとか二回目の開眼はそれほど時間をかけずに行われた。ずっと顔に触れていた温かいものの正体がようやく見える。
……そんな、馬鹿な。
「ウインディ……?」
頷いたその大きな体躯と、鮮やかな色の体毛と、わたしを見てくる黒い瞳は見慣れたものだった。
顔を寄せてくるウインディを反射的に撫でようと思ったが、腕が動かない。
どうしてウインディがいる。わたしと同じ場所に彼がいるなどあってはいけない。まさか彼も、すでに命尽きてここにいるのだろうか。そんな悲しいこと、あってほしくない。
どうやらわたしは横になっている状態らしかった。起き上がらなければ、いろいろと確かめなければ。
「っ!? ……おも、いっ」
先程の瞼とは大違いの、体の重さを感じた。どうしてこんなに重いのだろう。まるで随分長い間動かしていなかったような。
起き上がろうと動くたびに体がぎしぎしと鳴る。なんとか上体を起こし、座り込んだ状態になってみるとウインディがさっきよりもよく見えた。
やはりウインディだ。
最後の最後までわたしの傍にいてくれた、わたしに仕えてくれた、わたしの従者であり続けたあのウインディで間違いがなかった。
「ガウ」
「……うん」
自然と顔が笑ったが、それすらも表情筋がうまく動かない。
もしかしたら、ウインディは天寿を全うしてここにいるのかもしれない。わたしが死んでから時間が経っているのだろうか。
顔を寄せてきたウインディは、柔らかい毛も、温かさも、低く喉を鳴らすのも、かつてのままだった。顔に触れる感覚やその姿は、嫌に現実味を帯びている。
「また会えたね」
「ガウ」
それが望まぬ場所での再会だったとしても、単純に嬉しいと思える。
わたしの装いはあの日のままだった。
外れていた銀朱の布を拾う。なぜか、剣はなくなっていた。腰には鞘だけが残っている。
見回してみると、わたしがいる場所はどこか森の近くであるらしい。だが、霧が濃い。
これは心象的な風景なのだろうか。わたしが長らく生きていた、城の近くと似ているような気がする。
ここが天国なのかはたまた地獄なのか。わたしにとってはロータの地こそが天国と言えるのかもしれないけれど。だから、今この場所がロータと似ているのなら、それだけで満足だ。
「……え、あれ?」
小さく声が漏れた。ウインディを撫でる自分の手を見て、気が付いた。
手が黒くない。袖をまくっても、腕に黒い出血斑はなかった。首や鎖骨に手を当てても、気持ち悪いほどのあの腫れはなくなっている。
いや、驚くことではないのだろうか。死後の世界ならば、それもあり得るか。命尽きた体に病があっても意味がないのだから。
だが首を触ってみて、本当にそうなのかわからなくなった。首筋は温かく、それでいて、一定のリズムで刻まれる体の鼓動が指先に伝わってきた。
──脈がある。手首にも、胸にも手を当てるが、血が流れているのだとわかる同じリズムがあった。
「どうして……」
死後の世界でも脈は動くのか?
わたしは、たしかにあの時、はじまりの樹で、自分の手で。そうだ、覚えている。あの時の死の瞬間を。
それなのにどうしてたしかな鼓動と体温があるのだ。
「ガウ……」
「わっ……、……ん?」
少し悲しそうに目を細めたウインディが、わたしの首に鼻先を当ててきた。
くすぐったさに、それを防ごうと手を首へ持っていく。そして首に触ると、なにやらでこぼこした部分がある。
その一筋の“何か”の正体はすぐに思い当たった。あの時に、自らの手で切ったところだ。
「塞がってる……?」
自分でそこを見ることはできないが、触ってみる限り、わずかなでこぼこの正体は痕だろうか。
余計にわからなくなる。傷跡があるというならばその傷が付いた結果、つまりわたしはたしかにあの時に剣で……。
ならばなぜ、今わたしの体は動いている。脈を刻んでいる。
混乱するわたしに、ウインディは胸に頭を押し付けてきた。心臓の鼓動を確認するように。
わからない。これは夢なのだろうか。
……どうせだ。歩いてみようか。たとえ夢でもあの世であっても。
拾った銀朱の布を首に巻き付け、立ち上がろうと力を入れるが上手くいかない。仕方がないので腰から鞘を外し、杖代わりとしてなんとか立ち上がった。
「うわっ……」
踏ん張って重い体を立ち上がらせるも、ふらついてウインディへと倒れこんでしまう。体が立つこと、歩くことを忘れてしまっているみたいだ。
「ガウ?」
「ううん、いい。自分で歩くよ」
歩く前に、手に持っていた鞘を地面に突き刺した。
剣がなくなっていて、逆によかったのだろう。
ここがどこかはわからないままだが、あの世に来てまで武器など持つべきじゃない。
結局、守られてばかりだった愚かな兵に武器はいらない。収めるべき剣自体もない今、鞘ももう必要ない。すでにわたしは兵士でもなかったのだから。
少しだけウインディに支えてもらって、なんとか歩き出す。
この先には何があるのだろう。歩いていたら、何かあるだろうか。何かあったらそれはそれで。何もなくても文句は言わない。
だんだんと歩き方を思い出してきたように、足が動くようになった。
一体どこを歩いているのかもわからないが、ウインディは、何か考えをもってして歩いているようにも見えた。
「どこに行くの?」
「ガウ」
もうすぐ……?
頷いたウインディはそれしか言わないので、ひとまずそれに続く。
いつの間にか霧はすっかり晴れていた。緩やかな坂道を上りきる。
「……え?」
──嘘だ。今度ばかりは、完全に嘘だ。これが死後の夢なら、早く先程までの孤独へ戻らなくては。
嘘だと思いたい。あれは幻なのだと。
一度喜びを味わい、その後再び悲しみを見ることになるのなら、最初から喜びなどなくていい。
だが、今こうしていることはとても現実じみている。再び手を当てた首からは、やはりわたしが生きているという証が感じられた。鼓動は先ほどより速い。
少し先には、会うことを待ち望んでいた二人がいる。
彼ら二人が、互いに会いたがっていたという意味と、わたしが彼らに会いたがっていたという意味で。
その向こうには見慣れた城も見えている。
支えをしてくれていたウインディから離れ、引き寄せられるようにそのまま走り出す。足がふらついていたことなど嘘のようだ。ウインディも後を追いかけてくる。
そんな。まさか。でもあれは、たしかに。
彼らの名前を呼ぶわずかな数秒すらも惜しい。確かめたい。一瞬でも早く、彼らの所に。
『お待ちしていました』
足を動かすたびに近づく。従者の彼の声が耳に届く距離。この声を聞くのはいつぶりだろうか。
隣にいるその人も口を開いた。もう少し、あと少しだ。
「エストレア」
懐かしい声がわたしの名前を呼んだ。鼓膜が大きく震えた。
これが幻でも、幻影でも、願望を描いた夢でも。
目に見えたものはそれが事実。触れるものはそれが現実。「どうして」も「なぜ」も、考えたって今のわたしにはわからない。
ぬか喜びするくらいなら、どうかこれは嘘であれ。そんな願いは崩れ去った。
後ろから来たウインディが従者の彼に飛びついている。
気持ちが逸り、その方に向かって手を伸ばす。伸ばした手はしっかりと受け止められ、ついにわたしはその方の胸に飛び込んだ。
その方の手には、あの青いグローブがはめられていなかった。
「待っていた、エストレア」
ああ、この方も──生きている、生きている。
「……ン、さま……!」
泣きそうだ。声が詰まる。
わたしも、お待ちしていました。あなたがいなくなってから、一体どのくらい待っていたのでしょう。
もし夢ならば覚めなくていい。そう思う。いや、もう目は覚めている。
きっと今までわたしは寝ていたのだ。長い夜だった。だからこれは夢などではない。
耳に響く声も、背中に回された腕も、わたしを映す青い目も。その横でウインディがいることも、従者の彼がいることも。
全てが現実であること。それが現実であって事実であるならば、それでいい。
(おはよう、大好きな人たち)
──ああそうだ、お願いがあるのです
──ん? なんだ?
──歯を食いしばっていただけますか?
──……ん?
満ち足りた中で、少しの不満はなぜか?
わたしは怒っていたのですよ。
あなたが目の前にいたならば、拳で思い切り殴り倒してしまいたいくらいに。胸倉を掴みつつ微笑んで、拳の準備も万端。
少し手荒な朝の挨拶といきましょう、──アーロン様。