あまり信じたくはなかった。
この土地で戦争が起こるなど、何か馬鹿げた冗談だと思いたかった。だが事実、今この土地には赤と緑の両軍の争いが始まろうとしている。
ロータはどちらかに加勢するなどということはしない。ロータが巻き込まれないよう町や城周辺を守るのがわたしたちの役目だ。
そのためにわたしはここへ入った。最悪、この手で人を殺めることになろうとも。
リーン様やこの国を守りたいと思った。そのために取った剣だった。だが、本当は剣が必要となる事態など起こらないほうがいいのに。
今のわたしの役目は、町の中を守りつつ城へつながる橋を守ること。
リーン様の傍にはあの方が付いてくださっているから、大丈夫だ。それに加えて今は、戦場へ偵察へ行っているウインディとルカリオが気がかりだ。
突然、近くにあった結晶根が光った。
城の者でこれを扱えるのは、自分も含め三人しかわたしは知らない。
なぜわたしの所に……。何かあったのだろうか。
重要な指示ならば聞かなければならない。ひとまず結晶根へ触れる。光が強くなった。
“エストレア、私だ。聞こえているか?”
城にいるアーロン様からだった。
「はい、聞こえています。……何か動きが?」
“前線の兵を下げるよう伝えてくれ。それと、エストレアは至急城へ。頼みたいことがある”
「わたしに、ですか?」
“同じことを二度言わせるな。至急だ”
「は、はいっ!」
鋭い声に返事をする。結晶根から手を離すと光は消えた。
受けた指示を班長に伝え、前線に伝達してもらう。
わたしは町を走り城へ向かう。城へ続く長い橋を中ほどまで渡ったところで、目の前に影が落ちた。上を見上げると、アーロン様のピジョットだった。
「来たか、エストレア」
背に乗っていたアーロン様が降りると、ピジョットは上昇していった。どうしてアーロン様がこんな時に城外になど。
「頼み事とは?」
「リーン様の護衛の任をエストレアへ戻す。すぐに城へ戻れ」
「……え。わ、わかりました。アーロン様は、」
どこへ、と言い終わる前に腕を引かれた。
体に回った腕は今までにないほど力強くて、体にはアーロン様の温かさが直に伝わる。
一瞬、戦争の寸前だということを忘れてしまいそうになった。──なぜ。
「……だめだな、私は」
自嘲するように微笑んだアーロン様の顔が近づいた。驚きと困惑が混ざって、咄嗟に目を瞑る。
暗くなった世界で、そっと唇に柔らかい感触がありすぐに離れた。ゆっくり目を開けると、アーロン様の青い目が優しく細められた。
慈しむように手が頬に当てられる。アーロン様はわたしの左手を取ると、掌に唇を当てた。びくりと体が震える。──なぜ。
「エストレア、どうか健やかで」
──なぜ。
なぜ、そのようなことを言うのですか?
なぜ、微笑んでいるのに悲しい目をするのですか?
なぜ、悲しい目は強い意志を秘めているのですか?
「アーロン様……?」
訊きたいことがたくさん浮かんでは、喉の奥へ押し戻されていく。頭のどこかが、訊くなと言っている。足元から不安が上がってくるような。
アーロン様の顔が再び近づく。こつんと互いの額がぶつかった。
アーロン様はわたしの不安を見透かしたように、まるで子供をあやすかのように頭を撫でる。穏やかな優しい声で、大丈夫だ、と小さく呟いた。
「リーン様のお傍にいてくれ」
「アーロンさ、…っ!?」
ゆっくりなようで素早くわたしを離したアーロン様は、徐に橋から飛び降りた。戻ってきたピジョットがそれを受け止め、上昇した彼らは濃い霧に溶けてあっという間に姿が見えなくなっていく。はじまりの樹の方向だ。
何をするのですか。どこへ行くのですか。
アーロン様、アーロン様、アーロン様。
叫びたいのに口を開いても声が出てこない。体の全身がそれをしたくてしょうがないのに、わずかに残る冷静な一部がそれを止めている。
彼を振り向かせるな。覚悟を止めるな。
覚悟? 何に対する覚悟なのだ。
それよりも自分がすべきことをしろ。
今のわたしがするべきことはなんだ? 叫んでアーロン様を止めること?
「違う……っ」
命令に、従え。城に向かう足を速めた。
敷地内に入り城の中に入ろうとした時、ルカリオと共に偵察に行っていたウインディが戻ってきた。無事に戻ってきてくれて嬉しいと思えたのも束の間、ルカリオは一緒ではなく、代わりにどうしてかアーロン様の杖を咥えていた。
「ウインディ、それ、どうして……」
黙って俯いたウインディから杖を受け取る。
先ほどまでアーロン様が持っていたはずのもの。戻ってくる途中かはわからないが、アーロン様と会ったということだ。
「……っ!?」
口を開こうとすると、突然周囲が明るくなった。
城中の結晶根が輝き出したかと思えば、次々と淡い緑の光が放たれ、花びらのように光が舞う。ウインディと共に橋へ飛び出すと、はじまりの樹が大きく輝いていた。
波のように広がる何か大きな力は、得も言えぬ温かな感情を呼んだ。はじまりの樹から溢れ出す緑の光は大地を覆う。
これはなんなのだろう。はじまりの樹の力なのだろうか。
わからないことだらけだ。だが、いくらはじまりの樹が生きているとしても、何のきっかけもなくこのような力が解放されるとは思えない。
「ウインディ、教えて。……何があったの?」
ウインディは知っているはずだ。アーロン様やルカリオがどうしたのかを。おそらくは彼にとっても言い難いことだというのは、もう予想がつく。
努めて落ち着こうとした。わたしは知りたいのだ。
「ウインディ」
もう一度名前を呼ぶとウインディは口を開く。
聞いた話は、どこか予想していた通りの内容だった。
アーロン様がはじまりの樹へ向かったということ。つまり、心が温まるようなこの力は、アーロン様がはじまりの樹で何かをしたのだということだろう。
だが、それとは別のことは信じがたかった。
アーロン様がこの杖にルカリオを封印したというのだ。「城を捨てた」と言い、追いかけようとしたルカリオを封印したそうだ。
「ガウ……」
「うん、わかってる」
ずいぶんと見え透いた嘘をお吐きになる。
なぜ封印までしたのかはなんとなくしかわからない。でも、わたしがアーロン様の立場だったなら、きっと同じことをするのではないかと思う。ならば、封印するに至った理由は明白だ。
「ごめんなさい、ルカリオ……」
わたしには、ルカリオをここから出す方法がわからない。
手に持った杖を握りしめると、飾りがカチャリと音を立てた。
「ピジョッ」
「……ピジョット」
戻ってきたピジョットが傍に降り立った。
ピジョットによると、軍勢の戦いは鎮まり、それぞれが引き上げを始めたという。
アーロン様は、いったい何をしたのだろう。わからない。
「……ピジョット、この杖をリーン様の所へ届けてもらえる?」
「ピジョ」
「ありがとう。わたしもすぐに行くから」
わたしの手からくちばしで杖を受け取り、ピジョットは城へ飛んで行く。
リーン様はバルコニーにいらっしゃるだろう。危険だから部屋の中にいてくださいという忠告を聞き入れてくださらなかったから。
わたしも行かなくては。城へ戻ろうと足を動かしたわたしの前に、ウインディが立った。
「どうしたの?」
ウインディは何も言わずにわたしを見てくる。近づいてきたウインディの頭をそっと撫でてやると、温かさが手に伝わる。温かい。ウインディは生きている。そんなことを改めて思った。
改めて思ったら何かが切れ、喉の奥から声が飛び出した。
何でもないというように「どうしたの」なんて言ってみたところでそれは強がりにすらならない。
いろいろなことを本当はわかっている。
ロータの土地は救われたのだということ。戦いはなくなり、安心していいのだということ。
──きっと、アーロン様は戻ってこないこと。
わたしは今、それを認めたくないこと。それでも認めなくてはならないこと。
ウインディの首に顔を埋めた。もし夢ならば覚めてしまえばいいのに。
喉が熱いのも、絶叫に似た声が出るのも、顔がどんどん濡れるのも、全てが現実であることがとても憎かった。
(勇者が生まれたその日)
そして、「あなた」がいなくなった日。