アーロン様と話をしようと覚悟を決めてきたはずなのに、体が硬直して、とてもぎしぎしする。体の向きを後ろへ変えるのも一苦労だ。
話を聞いてもらえるかわからない。怖い。怖いけど。
顔を上げて、アーロン様を見る。
「アーロン様……先日は、申し訳ありませんでした。どうか、非礼をお許しください」
「……エストレア、顔を上げてくれ」
全身に力が入ったままそれに従うと、アーロン様は小さく笑った。
「その後、調子は戻ったのか?」
「え……? あ、はいっ」
「それならいい」
あまりにもあっさりといつもの会話のように返されて、拍子抜けしてしまった。
「怒っていらっしゃらないのですか……?」
「そこを勘違いしているな。怒ってはいないし、怒る理由もない」
「ですが、」
「怒ってはいない。……が、」
少々、痛い思いをした。
アーロン様は苦笑しながら、とんとん、と胸の真ん中を指差した。その様子に胸がぎゅっと締まる。
ああ、ごめんなさい。関係ない、などと言ってしまってごめんさい。
「申し訳ありません……!」
「謝らなくていい、過ぎたことだ。今のエストレアが本調子ならそれでいい」
「……はい」
「謝りに来てほしかったわけではないが、来てくれて安心した。……ああ言われては、こちらから行くのははばかられてしまってな」
アーロン様もわたしと話をしたいのではないか。
どうしてそう思うのかと問うたとき、ルカリオはなんとなくだと言った。でもそれが正しかったとわかって、どうしようもなく嬉しい。
アーロン様と話をすることができた。謝ることもできた。あとは、一番言いたいことを言わなければならない。
「……あの、アーロン様。改めて、お話があるのです」
全身に緊張が走り、また硬くなる。自然と俯いてしまう。
喉がきりきりと痛む。鼓動が異常に速い。それは警鐘のように耳に響く。
「あの……、わたし、……っ!?」
なんとかふりしぼって出した声は止まった。否、止められた。
不意に距離を縮めたアーロン様の手がわたしの口を覆った。
その手はいつの間にかグローブが外されており、手の温かさが直接口に伝わる。心臓がさらに早鐘を打った。
見上げたアーロン様はどこか焦ったような、困ったような、安堵しているような。混乱している今のわたしでは計ることのできない表情をしている。
「立ち聞きするつもりはなかったが……。実は先ほどの話を聞いた」
先ほど……。先ほどの話というのは、間違いなくジゼルさんとの会話のことだ牢と思った。アーロン様の言葉に、がつんと頭に衝撃が走る。どこから。いったいどこから聞かれていたのだろう。
「いつから二人が話していたかはわからない。聞いたのは、エストレアが『できない相談だ』と言ったあたりからか」
わたしの表情から言いたいことを汲み取ったのか、アーロン様は答えてくださったが、その答えに余計に刺された。そこから聞いていたのなら、ほぼ全部聞かれている。……今すぐこの場から逃げ出したくなる。
青い目がわたしを捉えると、アーロン様は笑った。
「私が誰かのものになるまで諦めないでくれるらしいが、するとその先に言われることに期待をかけてもいいか?」
「……っ」
聞かれている。全て。次々と衝撃的なことが襲いかかってくるので、思考や気持ちが追いつかない。
その先に言われること、つまりわたしが言おうとしていること。わたしが何を言おうとしているかわかっているのだろうか。
そうだとしても、それはアーロン様にとって期待をかけるようなものなのだろうか。
「こういうのは男から言うべきだと思っている」
口を覆っていた手が外された。それで安堵したのも束の間でしかなく、先ほどよりも遥かに近くなった距離により一層慄いてしまう。
隙間など本当にわずかしかない近さで、隣に顔が寄せられる。表情が見えない分、余計にアーロン様が読めなくて、ただただ体を硬くして肩越しに虚空を見つめることしかできない。
口はもう解放されたのだから、わたしはもう何かを話してもいいはずなのに。声が出せない。
アーロン様が小さく息を吐いた。それすらも間近で聞こえてしまうから、びくりと肩が震えた。
「好きだ。愛している」
呟くようではあったけれど、間違いなくわたしという個人に向けられた言葉は、本当に……心臓を刺されたようだ。この一瞬がつらいと思えるほどに。言葉の意味を理解すると、嬉しくて、死んでしまいそうだ。
だけど聞いた瞬間、怖くなった。怖い。だめ。だめだ、わたしは、
「わ、たしは……アーロン様が言うほど、強い人間ではありません……っ」
喉が熱くて、言葉がもつれる。わたしは弱い人間だった。自分の感情一つに翻弄されてしまう。
「綺麗な人間でも、ありません……」
黒くて重たい、醜いものを抑えられない。清純な人間ではない。
アーロン様に告げられた瞬間、嬉しいはずなのに怖くなった。
このような自分は、この方と釣り合うわけがないのではないか。人間として、わたしは欠陥物なのではないか。だからわたしが言おうとしていることは、言うのはやめるべきなのではないか、と。
ここで弱気になるわたしは、どこまでも弱い。
「それは、人なら必ず持っている当たり前のものだ」
背中に腕が回されて、もうアーロン様との間には隙間すらもなくなる。体温が、上がる。
「アーロン様も、持っていらっしゃるのですか……?」
「もちろんだ。エストレアが思うほど、私は綺麗な人間ではない。……失望したか?」
「いいえ……」
「そうか、よかった」
顔は見えないが、アーロン様の声には喜びが滲んでいるのがわかる。
「……では、そろそろ答えてもらえないだろうか」
「……え?」
「綺麗な人間ではないから、今の私は謙虚を忘れて少々自惚れている」
体が少し離れる。アーロン様はわたしの頬に手を当てると、いたずらっぽく微笑んだ。
「だから、言ってくれ」
ここまで来て、ここまで言われて「何をですか」と問うほどわたしは愚かではない。
泣きそうにもなる、不思議な気持ちだ。
覚悟を決めたように、頬にあるアーロン様の手に自分のを重ねて、青い目にわたしを映す。その目に映るのはわたしだけでいいなどと思ってしまうわたしも、少し自惚れているのかもしれない。
「お慕いしております、アーロン様」
言ってから少し考える。これでは言葉足らずだ。もっと。もっと単純でいい。
「好きです」
あなたが好きです。
これほどの気持ちを、わたしは今まで知らなかった。自分の中に、こんな感情があることを知らなかった。
わたしはアーロン様の中に留まっていたい。この方の記憶に、一生に。それが今一瞬限りでもいいから。エストレアという存在がいたと、たしかに覚えていて欲しい。
小さな痕でかまわないから、どうかわずかでもわたしを留めて欲しい。
「それだけか?」
アーロン様は手を外して、重ねていたわたしの手を掴んだ。そこでふと、自覚した。自分の欲を、たった今目の当たりにした。ほら、清純な人間とは程遠い。
それだけではない。今一瞬限りでいいわけがない。小さな痕を残すだけでいいわけがない。この方にとって、それっぽっちの存在でいたくはない。
「エストレアはもっと欲を持っていいと思う」
どうしてアーロン様は、わたしが言わずとも的を射た答えを出すのか。顔に出ているのだろうか。
「わたしは、充分欲張りですよ」
「例えばどのような?」
どうするべきか。どう伝えるべきか。
留めて欲しいなどと甘いことは言わないほうがいい。自分で残すのだ。アーロン様が嫌でもわたしを思い出してしまうくらい、記憶に大きな痕を残すこと。
「……失礼します」
体を離してアーロン様の襟元を掴み、少しだけ背伸びをして、頬に唇を押し付けた。それをした後で体が燃えそうに熱くなる。
こんなこと、今まで誰にもしたことがない。だけどもこのくらいしかわたしには思いつかない。
例えばどのような? 具体例など簡単だ。こうしたいと思うくらい、わたし以外の他の人にはこんなことを許さないで欲しいと思うくらいには。
「アーロン様のことを独占したいと思っています」
「それは嬉しい申し出だ」
「余裕でいらっしゃいますね……」
「これでも結構驚いている」
とすん、とアーロン様の胸に頭を押し付けられる。
規則的な鼓動が聞こえて、心なしか速いような気がする。さらに自分の体の内の鼓動も重なる。今したことの羞恥から自分の鼓動はとても速い。
だが、少しでもこの方を動揺させることができたのが、してやったりな気持ちにもさせる。
そうして、身を委ねていた油断がいけなかった。兵士としても、油断など最もしてはいけないことだったのだが。
頭に添えられていた手が首へ滑り、顎を持ち上げられれば次に瞬きしたあとには、唇に柔らかい感触が触れた。
先ほど自分が勢い任せに頬へ押し付けたのとは全く異なっていた。目を瞑る余裕もなく、唇から感触が離れていくまでただ呆然としていた。
結構驚いていると言った矢先に、唇が離れた後のアーロン様はとてもそうは見えなくて、ただ青い瞳を見つめ返すことしかできない。何が起こったのかを一瞬で整理すると、一気に体温が更なる急上昇をした。顔の熱さに、力が入らない腕で咄嗟にアーロン様の肩を押す。
「すまない、嫌だったか?」
「いや、で、はないですが……っ、驚いた、だけですっ」
「私もエストレアと同じように欲がある。だから、エストレアを独占したいと申し出てもいいだろうか」
アーロン様の言い方にはもはや疑問符すらないから、わたしが何と答えるか確信しているのだろう。
「そ……のお申し出は、」
恥ずかしさのあまり顔を上げられず、ぼそぼそと答えるしかできないのが少々情けない。
「ガウ?」
「っ、ウインディ!」
「おっと」
ひょこりと通路から顔を見せたウインディに、アーロン様の言葉に応える前に思わず離れて駆け出してしまった。だってあのままでは心臓がもたない。
顔どころか体中が熱い。炎の属性を持っているウインディと同じくらい燃えてしまいそうだ。
心臓の鼓動が速すぎて、胸が痛い。それをわかっているからか、アーロン様もすんなりわたしを離してくれたことはありがたい。
ウインディの体毛に熱い顔をこれでもかというほど埋めていると、あとからルカリオもやって来てわたしとアーロン様を交互に見た。
わたしと話をしたのがさっきの今だったので、状況を計りかねているのだろう。
『エストレア様、アーロン様とお話は……』
「あ、うん……話はできたよ。ちゃんと解決もできた、し……」
「ガウ?」
『あの、どういう……?』
「ウインディ、ルカリオ。今は詳細を訊かないほうがいいぞ」
「アーロン様がそれを言うのですか!?」
「当事者だからな」
ウインディやルカリオには、もう少し落ち着いてからでなければ言えなそうだ。
顔の熱を冷ましながらアーロン様を見やると、好きだと実感できるのは嬉しいやら悔しいやら。
ああ、もう。だけどやはり、この人が愛おしい。
わたしにとって、アーロン様という存在はすでにこれほど大きいのか。
思わずため息をつく。きっとわたしの目は盲いてしまったのかもしれない。とある病気のせいだ。
だがアーロン様だってわたしと同じように病気にかかっていたはずで。自惚れでもなくその要因はわたしであったはずで。そうでなければ想い通じ合うことなどはないのだ。
アーロン様がこちらへ近付き、わたしへ向けて手を差し出してきた。わたしがその意味を汲み取れず見上げると、不意にいつもの会話のようにアーロン様は口を開いた。
「どうか、これからもよろしく頼む、エストレア」
その言葉はどこかで聞いたことがある気がした。
それはいつ聞いたのかもすぐに思い当たった。顔の熱は未だに引かないけれど、小さく笑いこちらも手を差し出す。
「はい、こちらこそ」
その「これから」には、特別な意味があると受け取っていいのだと思う。特別な意味がなくとも、以前もアーロン様は同じことを言っていたけれど。でも、もう違うのだ。
わたしはこの方と一緒にいたい。独占していたい。
今まで、これほどに何かを渇望したことなどなかった。でもアーロン様も同じように思ってくれているならば。
それならば──図らずも最初に会った日と同じ場所で同じ言葉で、あなたの手をとって、喜んで申し出をお受けしましょう。
──青年が、波導の勇者と呼ばれ伝説に名を残す前の話。