期せずして波風

剣の日課は訓練が始まってからも続けているけれど、今までよりもはるかに少ない内容に減らしていた。自主的なのも結構であるけど、それが訓練に響いては元も子もない。

朝起きても瞼は重い。取れ切れていない疲れが徐々に溜まっているのか、体を起こすのが億劫に感じることもある。
着替えようとベッドから出ると、何か違和感があった。左目がうまく開かない。眠気が残っているからという感覚ではない。
鏡を見てその理由がわかった。

 

「何……これ」

 

上瞼が赤く腫れていて、少ししか開いていない。軽く触れてみると痛んだ。

着替えたわたしは廊下を走り、城に勤めるお医者様の部屋へ駆け込んだ。無理に眠りを覚ましてしまったけれど、先生が寝起きのいい方で助かった。

 

「炎症を起こしているようだね。目をこすったりしなかったかい?」
「しましたけど……でも、そういうことは誰しもやるものではないですか?」

 

先生は下がった眼鏡を上げた。

 

「たしかにそうだけど、本来はよくないことなんだよ。目に汚れが入ると、今の君のようになることがあるからね」

 

つまり炎症を起こして腫れるということだ。
点眼薬を差したほうがいいと言って、先生はわたしの下まぶたを引っ張る。左目に点眼薬が一滴落とされた。ひんやりとした液体が眼球を覆う。

 

「また夕方にも来なさい。点眼薬は一日二回が望ましい」
「わかりました。……どのくらいで治るでしょうか」
「悪化することがなければ一週間ほどかな。よほどのことがない限りはきちんと治る」

 

それを聞いてほっとした。視界が狭いのは仕方がないが、きちんと治るのならば安心だ。
目をこすったり触ったりしないようにという厳重な注意を受けて、朝からの訪問の謝罪とお礼を言って先生の部屋を後にした。

 

 

「お前、目どうしたんだ?」
「炎症を起こしてるらしいけど、大したことないよ」
「いつにも増してひどい顔だな」
「へぇ、いつもひどい顔と思われてたとは」
「悪い。冗談」

 

訓練が始まる前の柔軟体操をする相手の男子に、左目のことを指摘された。やはり目につくようだが、怪我というわけではないので動くのに問題はない。

 

「全員整列!」

 

このような一声がかけられるときは、大事な話があるから集合しろということだ。
まだ準備運動が途中だというのに何事かと思ったが、上を見上げると闘技場の観覧席の中央にリーン様が姿を見せた。さらにその隣にはアーロン様もいるので、思わず目を見開いた。左目はあまり開かなかったけれど。

軍の現状を把握しておきたいというご要望があったらしく、今日は訓練を見学されるようだ。
アーロン様が一緒なのはなぜだろうか。勝手ながら気まずさに襲われ、顔を伏せた。

今日から剣の実技を本格的に行うようで、一対一の模擬試合をするとのこと。
わたしは基礎訓練時に上官から良い評価をいただいていた。男性たちとはどうしても身体能力で劣っているのは避けられないので、ここがせめてもの張り合える部分だ。

 

「お前さ、ちゃんと見えてるのか?」
「少し見えづらいけど大丈夫」
「ほんとかよ……。あ、というかお前の相手って、」

 

さっきの男子が苦い顔をする。おそらく二重の意味で。
わたしの順番が回ってきたので、木剣を持って中央へ出ていく。
相手は……先日わたしが殴り倒したあの男子だった。なんともくじ運が悪い。だがしかし、わたしとしては相手のほうが悪いと思っているので、彼を殴ったことに対して特に何かを思うわけではない。

 

「よろしく」
「手加減してもらえると思うなよ」

 

試合前のあいさつは、先日の仕返しだとか威嚇などというよりは、単純に見下した者に対するそれだった。悪質な仕返しなどよりはずっとましだが、そうくるか。

 

「別にしてほしいとも思わないし、そんな余裕があるならご自由に」

 

彼の目つきが鋭くなった。おそらくそれはわたしも同じだっただろう。

開始の合図がかかり、お互いに踏み込む。
いつもなら相手の出方を見てから動いていただろうけど、今はまどろっこしいことをしようとは思わなかった。
彼の一振りは重い。一度受けてから思う。それでも受けきれないほどではない。もう一度踏み込むとそれはうまく避けられてしまう。

でも、彼の動きはわたしが何度も修行をつけてもらい、組んできたルカリオより遅い。避けられたとはいえ攻め続けることができる、はずだった。

 

「……っ!」

 

激しい動きが響いたのか、左目がずきんと痛んだ。反射的に動きが一瞬止まってしまう。その一瞬を見逃すほど相手は弱くない。
左側へ回り込んできた。今のわたしは左の視界が狭い。動きが、見えない。

 

「取った!」

 

その瞬間、何かが起こった。
視界が突然灰色になった。その灰色の世界で、周りには人の形をした何かがいる。そして、左から。人の形がこちらに剣を振り下ろすのがわかった。

条件反射のように右腕を動かす。びりびりと重い衝撃が伝わってくる。
それと同時に交差した剣が灰色世界の端に映りこんでいたので、うまく受けることができたらしい。そのまま足を払うと人の形は後ろへ倒れた。「そこまで!」と上官の声が聞こえて我に返る。

目を開けば、灰色世界には元の通り色がついた。
今、わたしは目を開けた。つまり、それまで目を閉じていたということだ。
だがおかしい。目を閉じていたら何も見えないはずだ。どうなっている。わたしはさっき、見えないはずの左側がわかった。

先ほどまでの灰色の人の形は、はっきりとあの男子に戻っている。
あの一振りを防がれるとは思っていなかったのだろう、ひどく驚いた表情をしていた。それと同時にわたしを強く睨みつけてきたが、今はかまっていられない。

何が、起きたのだろう。それを解明するには、あまりにも一瞬の出来事過ぎた。

 

 

「午前の訓練、お疲れさまでした。皆さんのような優秀な方々が入隊してくれたことをとても嬉しく思います。有事の際に国を守るため、どうかこれからも励んでください」

 

午前の訓練が終わると同時にリーン様は公務へ戻っていった。当然、一緒に来ていたアーロン様もだ。

 

「あ……」

 

去り際に目があった。逸らすことができず、小さく会釈をするとアーロン様は微笑んでくれた。
お会いするのはしばらくぶりだというのに。わたしは、あの日のことをまだ謝ることもできていないのに。

周りの誰も気づかないような、思いがけない小さなやりとり。
一言で表せば、たかがこの程度、だ。わたしにとってはされどこの程度。お姿が見れた。目があった。笑顔を向けてくださった。それだけで。
しかし、リーン様とアーロン様が闘技場を去ってから、今日のわたしは目が腫れていたことを思い出してしまい気分は急降下だった。

ああ、ひどい顔を見られてしまった。

 

 

また書庫から本を借りようとアーロンは廊下を歩く。

ルカリオへの指導と自身の修業と、任されている城での仕事と。それらをすることで、せいぜい充実した毎日を送っていると思いたかった。
客観的にはそう見えているかもしれない。だが自分自身はそう思えているか、いまいちわからなかった。

 

「あら、アーロン」
「……リーン様」

 

向かいから侍女を従えたリーンがやって来た。その侍女はエストレアではない別の女性だ。
当然のことだった。今の彼女は兵として軍事訓練に参加している身だ。一時的か、恒久的かは不明だが侍女の役目から外れている。
それがなんだか、胸にちくりと刺さったような気になる。

 

「ちょうどよかった。これから一緒にお茶をどうでしょう?」
「え……」

 

二人分の用意を、と侍女に告げると女性は承知して去っていく。それを見送ったリーンは部屋の扉を開ける。
ここは公務室だ。自分が入っていいものか戸惑うアーロンに、リーンは微笑んだ。

 

「どうぞ? わたくしが許可を出しているのですから、遠慮せず」
「わかりました。……失礼いたします」

 

勧められるままに椅子に腰かけて程なく、戻ってきた侍女によって出されたお茶を飲むことになった。
いつもは言ってみればアフタヌーンティーばかりなので、早い時間にお茶を飲むのは初めてだった。

用意されたお茶を飲むと、少し違和感を抱いた。
いつもと、何か違う、か……?
何がどう違うのかは厳密にはわからない。だがお茶の味も、お茶請けのお菓子も、いつも味わっていたものと違うような気がした。

侍女を下がらせたリーンはおもむろに立ち上がると、インテリアのように置かれていたチェス盤を持ってきてテーブルに置いた。

 

「アーロン、チェスの心得は?」
「嗜み程度には」
「では一局お相手願いたいのですが」
「承知しました」
「好敵手であることを期待していますよ」
「ご期待に沿えるかどうか」

 

王族が使うものだけあってその辺りで売っているような木製ではなく、駒も盤も質のいいガラスで作られていた。

 

「わたくしが先手でも構いませんか?」
「もちろんです」

 

チェスは白が先手と決まっている。まずは前線のポーンを動かさなければ始まらないので、リーンはポーンを前へ進めた。アーロンも同じように黒ガラスのポーンを動かす。
ルークやビショップも動き始め、少しずつ互いの駒をとったりとられたりを繰り返す。

 

「浮かない顔ですね、アーロン」

 

突然の指摘に、アーロンは何度か瞬きをした。アーロンが駒を動かしていないので、まだ順番はリーンに移っていない。

 

「そうでしょうか。そんなことはないと思いますが」
「あの子と同じことを言いますね」
「エストレアが……?」

 

少し焦った。リーンの「あの子」という言い方に、当たり前のように彼女が思い浮かんだ。だが、

 

「わたくしは一言もエストレアのことだと言っていませんよ?」

 

しまったと思った。カマをかけられたのだとわかった時にはもう遅い。リーンはいたずらが成功した子供のような無邪気さを滲ませて笑った。

 

「どうしてエストレアのことだと思ったのですか?」

 

ここまで来るとごまかしは効かない。
エストレアが連想されたのは彼女がリーンの侍女であるから、ある意味で間違いにはならない。
しかし一番の理由は、アーロンには思い浮かべてしまう心当たりがあったから。少し焦ったのは、焦るだけの理由があったから。それが後ろめたかったから。

 

「……軍が設立される前の話ですが」

 

アーロンは黒のルークを動かして白のポーンを盤から外した。戦況は五分五分というところ。

 

「エストレアが軍に入ると言った時に、私は反対をしたのです」

 

続きを促すようにリーンは小さく頷いた。

 

「なぜ反対したのか理由を伺っても?」
「女性が入るべきではないと思いました。……最初は」
「最初、の先は?」

 

リーンの手番になったが、リーンは駒を動かさない。
女王相手に嘘を吐こうとは思わないが、対局にかまけて多少なりともうやむやにしようと思っていた。それを見抜かれているのか、単に次の一手を考えているだけなのかはわからない。
だが、自分が話さなければリーンは駒を動かさないだろうと思った。

 

「危険なので、入って欲しくないと思いました」
「正しい意見ですね」

 

リーンは白のクイーンで黒のビショップをとった。これは少し痛手だ。

 

「リーン様は、止めようとはお思いにならなかったのですか?」
「思いました。でも、できませんでした」

 

今度はアーロンのほうが駒を動かさなかった。

 

「エストレアが剣をする理由と、それを活かす何かをしたいと思うのは先代の教えが元です」

 

知っている。彼女が剣を使うと初めて知った日の朝のことだ。

 

「『守られるより先に守れ』ということですね?」
「知っていましたか」
「詳細は知りませんが、先代様から教わったというのは聞きました」
「ええ。……エストレアはそれを成そうとしているだけです」

 

ただ黙っていた。相づちを打つことも忘れていた。

 

「その教えを元に行動しているのは、エストレアにはそれをしたい理由があるということです。軍に入ることを決めたのは、したいことをするにはそれが必要であったから。だから……入隊を反対するということは、エストレアの理由も、そのために培ってきたあの子の全ても否定することになる」

 

少し悲しそうに微笑むリーンの言葉に、アーロンは思いきりひっぱたかれたような気がした。むしろ自分でそうしたい衝動に駆られた。

 

「ですから、身体的に厳しいことや危険だということがわかっていても、わたくしには止めることができなかったのです。……情けない話です」

 

きっとそれだけの理由ではないことはわかった。
当然、軍への志願者をふるいにかける選定は行われたはずである。だが、それを潜り抜けてなおエストレアが残ったということは、入隊に必要な条件をすべて満たしていたからであって、客観的な事実としてそのように判断されたということだ。

ぐっと握っていた拳をなんとか解いて、駒に手を伸ばす。黒のナイトで白のルークをとる。

 

「私は酷なことをしたようです……」

 

あの時は深く考えていなかった。
アーロンの言ったことは一般的に考えてそう思うだろうという反対意見だったが、彼女にはそれを跳ね除けてまで入隊するだけの理由があったのだ。

──リーン様やこの国を守るための力を持っていたいのです。
以前、そう聞いたことだってあったのに。

 

「反対するのは普通の感覚です。現にわたくしだって、口に出さなかっただけで内心は止めようと思ったのですから」

 

それでも、わかっていて止めなかったのはそれだけリーンが彼女のことを理解していたからだ。
頭ごなしに反対し、最終的には「だめだ」という強制にも似た言葉を使った自分とは天と地ほどの差があるとアーロンは自覚した。

 

「もっとも、止めたところでエストレアが止まってくれるかはわかりませんが」
「……ああ。それはたしかに」

 

アーロンに至っては自分がそれを目の当たりにしている。

 

『わたしのことはわたしが決めます! アーロン様に言われることではありません!』

 

意志の強さとアーロンへの批判が詰め込まれたこれは、思い出しただけで痛烈に刺さる。
リーンがクイーンを動かした。

 

「チェック」

 

カツンと音が響いて改めて盤を確認すると、黒のキングに一マス空けて白のクイーンが置かれた。
キングを動かしても他の白い駒にとられる。他の黒駒を動かして防ぐこともできない。これは、防げない。チェックメイトである。

 

「……負けました」
「やりがいのあるゲームでした。お相手ありがとう」

 

緊張が解けたようにリーンは息を吐いた。
惜しかった。次の自分の番でアーロンはチェックをかけることができた。僅かな差だった。

 

「アーロン、チェスのお相手ついでにもう少しだけ付き合っていただけませんか?」
「それは構いませんが、どちらへ?」

 

もう一局相手をしろという意味ではないだろう。

 

「この後、軍の訓練を見学しに行くことになっています。アーロンにも見ていただけたらと思うのですが、どうでしょう」

 

その言葉にアーロンはつい苦笑した。
そこには彼女がいるはずだ。軍の訓練にいる彼女を見たら、きっと改めて自分は間違ったことを言ったのだとわかってしまう。だが、反省にはちょうどいいかもしれない。

チェスといい今の提案といい、リーンは勝負を詰めるのがうまい。
これまでの会話があって、さらにこのタイミングで付き添いを勧めるというのは、アーロンにとっては心境的にどうしても行こうと思えてしまうのだ。

正直今は、姿を見ることすら気まずい。だが、ここまで煽られては行かないわけには。

 

「喜んでお供させていただきます」
「よかった。では、今しばらくお付き合い願いますね」

 

リーンに続いて部屋を出る。向かう場所は闘技場である。

 

「アーロン、ひとつ訊きたいのですが」
「はい、なんでしょう」
「もしエストレアが男性だったとしたら、反対しませんでしたか?」

 

その問いはやけに刺さった。突然だったからというだけではない。
先ほどリーンには、最初は女性が入るべきではないから反対したと言った。

 

「いいえ」

 

アーロンは首を横に振った。自分でも驚くほど即答である。

 

「やはり私は反対してしまったと思います」

 

彼女に反対を示したときは、女性だからという理由は一瞬だった。そのあとすぐに、危ないから入らないで欲しいという意見に切り替わっていた。
つまりアーロンにとって、女性だからというのはそれほど大きな理由ではなかったのだ。仮に男性だろうと女性だろうと、

 

「あの人がエストレアである限り、私は反対してしまうでしょうね」

 

あの人が危険な状況になるのは、ましてや傷つくのは嫌だ。男性なら構わないという問題ではない。

 

「そうですか。安心しました」

 

リーンは言葉通り、とても安心したように笑う。これは、もしかして試されたのか。何に対してかはわからないが。
彼女の入隊に反対したことに対する意味なのか、それとも別の意味なのか。含みのある言い方に、アーロンは曖昧に笑うしかなかった。

その日、久しぶりに目にした彼女はどうやら目に何かあったらしく痛々しかったが、見る限りアーロンの心配は杞憂に終わったようだった。
元気そうでよかったと思ったのもつかの間、アーロンにとってはもっと驚くことがあった。