「女王様は何考えてんだろうな」
訓練の昼休憩中、突然そんな会話が聞こえた。
常に同じ班員同士でいろという決まりはないが、皆ある程度知った者同士でいるほうが楽なので休憩も班員同士で集まっていることが多かった。
話が聞こえたのは、わたしとは別の班の集まりからだ。視線を向けると、一人の男子が呆れ顔で話している。
「守備兵法とかばっかりやってて他の国に勝てるとは思えないね」
「別に今のところは勝ち負け関係なくないか。戦争自体起きてないんだし」
「それじゃ何のための軍隊だよ。条件が厳しかった割にこの軍、妙に人数少ないし。ほんとは女王様、国を守る気もないんじゃねえの?」
それに、と声は続く。
「アーロンって人いるだろ? あの人、俺たちみたいに日夜訓練してるわけでも軍に入ってるわけでもないのになんか偉そうだよな。意味わかんねえ」
そう言い終えた次の瞬間、派手な音と共に彼は顔を押さえて地面に倒れこんでいた。
駆け寄ったわたしが彼を殴ったからである。さらに言えば平手という生易しいものではない。
突然のことに呆然としていたが、彼は鋭くこちらを睨みつけると立ち上がった。思い切りわたしの胸倉を掴んでくる。
「な……にすんだよっ!」
「……訂正して。今言ったことを」
「はぁ!?」
「何も、わかってない」
行動と声の温度差が大きかった。
何のためにリーン様が軍を設立したというのか。
まだ起こってもいない戦争に勝つことを見越してではない。この国や国民を守りたいからだ。そのための必要な力として、軍を設立せざるを得なくなったのだ。
自衛が目的とはいえ軍隊だ。何かがあった時、必ずしも命の保証なんてない。入隊の条件が厳しかったのは、あえて門を狭くすることで、いずれ出るかもしれない兵の犠牲を最小限にしたいからだ。
そして、そんな最小限の犠牲さえもリーン様は決して望まない。
「軍なんて、ロータでは作られてはいけなかった」
本来なら、わたしたちがこんな訓練をしていることさえあってはならなかったはずだ。
だけどそれでは国を守ることはできないから、リーン様は決めたのだ。リーン様にとってこれはどれほど苦渋の決断だったか。
そしてもう一つ。
あの方が、アーロン様がいつ偉そうな態度をとった。勝手な憶測を言うな。意味がわからないのはどっちだ。
だが大きなことを言えるほど、わたしはあの方を知っているわけではない。そんなことはわかっている。それを悔しいとさえ思う。それでも。
わたしの胸倉を掴んだままの彼の腕に手を添える。その腕を掴む自分の手には、盛大に力がこもった。
「あなたが勝手にお二方を語るな!」
リーン様とアーロン様があんな風に言われることは、どうしたって許せないのだ。
午後一番でわたしは上官にお呼び出しを受けた。
当然だ。ただでさえ人数の少ない隊の中で人を殴ったなどということは、特定の誰かが報告しなくともあれよあれよと耳に入るものだ。
「呼ばれた理由はわかっているな?」
「はい。承知しております」
「お前はそれなりに優秀だ。……言い訳があったら聞こう」
「いえ、ありません」
即答したわたしに上官は驚いたような顔をした。
情けを求めるように、言い訳を並べ立てると思われていたのだろうか。わたしが彼を殴ったことは事実だ。言い訳のしようがないし、したところで無意味だ。
上官は椅子の背もたれに体を預けた。
「お前が理由なく人に手を上げる人間だとは思っていない。それなりの理由があったと見受けるが」
理由はもちろんあるが、言っていい理由なのだろうか。お二人の名前を出すことこそ、なんだか言い訳がましい。
「言うのもくだらないような軽い理由だったのか?」
「そんなわけありません!」
つい声が大きくなる。それならきちんと言え、というような視線を受けてわたしは口を開く。
「彼が、リーン様とアーロン様の、お二人を侮辱したのが許せなかったのです」
そう言うと上官は合点がいったらしい。
わたしがリーン様の侍女であるということは上の人の何人かは知っている。だからといって扱いが特別になるわけでもないが、一応知っておけということらしい。
彼が何と言っていたかも話した。これは報告の意味合いが強い。
わたしはあれをお二人への侮辱と感じたが、それはわたしの主観だ。本当にそうであるかは上官の判断を仰いだほうがいい。
きっと彼の発言を直接聞いても、リーン様やアーロン様はさほど気にしない。おそらく、彼にもわかってもらえるように誠実な行動で自分を示すだろう。
お二人の名誉を守った、などと言うつもりはない。
わたしは感情に任せて身勝手なことをしたのだ。わたしが許せなかったというだけで、実際にお二人がどう思うかはわたしが知ることはできない。
それでも、わたしからすれば殴るくらい当然とも思える理由であるのだ。
なるほど、と上官はつぶやいた。
「たしかにそれは聞き捨てならんな。我々が何のために存在しているかをわかっていないのも問題だ」
上官は少し首を傾げて言葉を続ける。
「しかし、侍女の立場からして女王陛下へのその発言はわからんでもないが……アーロン殿のことはなぜだ? お前はあの方の従者というわけではないだろう」
「おっしゃる通りです。……が、わたしはアーロン様を尊敬しています」
自分で言ったのに、尊敬という言葉がなんだか引っかかった。だけど間違った表現ではない。
「それに、彼の発言は何一つ正しくありません。謂れの無いことを、軽々しく言ったことを黙認する余地がありませんでした」
以上です、と口を閉じる。勝手なことを言うな。その一言に限る。
「よし、よくわかった。エストレア、軍内の規律を乱した罰としてお前に体力訓練をいつもの三倍を課す」
「さんば……!?」
「安心しろ。どちらにも非はあるが、向こうのほうが非が重いと判断した。あちらは五倍にしておいてやる」
三倍という罰に一瞬慄いたけど、わたしの話を聞いた上でそう判断してくれたことはありがたかった。免職すらも覚悟していたのだから、それで三倍なら安いものだ。
「訓練へ戻っていい」
「はい。ありがとうございます」
「三倍の罰が終わらない限りは、剣の実技訓練はやらせんからな」
「う……、はい」
その日の夜は腕も脚も痙攣のように震えて、体が完全に死んだと思った。