落としたひとかけら

「アーロン様、世界のはじまりの樹をご存知ですか?」
「もちろん。一度だけだが行ったことがある」

 

やっぱり。アーロン様が知らないはずはないだろうと思ってはいたけど、行ったことがあるということにわたしは驚いた。

 

「本当ですか!?」
「ああ。この城に仕える前のことだが、土地の調査をしようとした時に一度だけ」

 

わたしは当然ながら行ったことなどない。こことはじまりの樹はかなりの距離が離れている。いつも城から見えるその姿に、不思議な神秘や憧れを感じているだけだ。
そこに行ったことがあるという人が目の前にいるなら、話を聞きたくなるに決まっていた。アーロン様にもそれが伝わったらしい。

 

「あれは樹のように見えるが、樹ではなく巨大な岩山だ」
「岩山……?」
「だが鉱物でありながら、あれは生きている。植物としての機能も果たしているし、だからこそ『樹』というのもあながち間違いではない」

 

アーロン様の説明に、興味や驚きが混ざってしまう。相づちもお茶を飲むことも忘れて感心の息を漏らす。
植物ではなく鉱物。鉱物なのに生きている。さすが、ミュウが住んでいると聞くだけあってとても不思議な場所だ。
そういえば、アーロン様はミュウに会ったことがあるのだろうか。

 

「世界のはじまりの樹にはミュウが住んでいると聞いていますが、アーロン様はミュウに会ったことはありますか?」
「その時に一度会った。ミュウ自体も不思議な存在だ。それが住んでいるだけあって、あの岩山の不思議さも妙に納得してしまった」

 

自分と同じ考えをアーロン様が言ったことに嬉しくなりつつ、アーロン様は学者にもなれるのではないかと思った。

わたしもミュウを見たことがあるというのはなんとなく黙っていた。というより、あまりにも唐突に現れて唐突に消えてしまったので、もしかすると幻でも見たか思い込みによる妄想だったのかもしれないという考えが浮かんでしまっていたのだ。

 

「ということは、ルカリオもミュウに会っているのですね」
「いや、その時はまだルカリオと知り合う前だった。だから彼はあの岩山へ行ったことはないんだ」

 

意外な答えだった。アーロン様とルカリオはずっと昔から共に過ごしてきたのだと思っていた。だが考えてみれば、それはわたしの勝手な想像でしかない。

本当に、わたしはこの方のことを何も知らないのだと改めて思い知ってしまった気がした。
わたしがアーロン様について知っていることはなんだろう。案外甘いものを好んでいること? 波導使いであること? 聡明なこと?

人付き合いに少し不器用であることを知っているけどそれはすでに改善されたようだし、知っていた、という過去形だ。そうなった今、わたしが知っていることはどれもこれも周知のことだ。
それよりも、城の人もアーロン様を知るようになったことは喜ぶべきことだ。孤独に落ちてしまいそうな、あの時のアーロン様のつらそうな姿は二度と見たくない。

それなのに。
どこかで、わたしだけが知っていたかったと思う自分がいるのだ。その感情はとてもどろっとしていて、気持ち悪くなってきそうだ。

 

「エストレア、また眠いのか?」
「いえ、違います。今日は大丈夫です」
「それならいいが」

 

少し黙ってしまったわたしに、アーロン様は勘違いという名の心配を向けてくれる。
この間の居眠りのことを思い出して、気まり悪く俯いた。弱味を握られているわけではないが、心境的にはそんな気分だ。話題を戻そうと顔を上げる。

 

「わたしも、いつか世界のはじまりの樹へ行ってみたいものです」
「それなら、その時は私も一緒に行こう」

 

驚いて思わずアーロン様の顔をうかがってしまう。そんな切り返しをされるとは思っていなかった。

 

「エストレアを一人で行かせるのは心配だからな」

 

わたしと視線がぶつかったアーロン様は笑う。手が、震えそうだ。

 

「行きはともかく、一人では城に戻って来れなそうだ」

 

途端にその笑いはからかいを含んだものに変わり、手が震えそうだった動揺も一瞬で消え去った。迷子の心配ですか。

 

「それほど簡単に迷いません」
「どうかな。幼い頃はよく城内で迷っていたそうだが」
「え……、なぜそれを!?」
「執事長が言っていた。迷った挙句、部屋を間違えて会合中のところへ入ってしまったらしいな」
「……幼少の頃の話です」
「おつかいのために町へ行けば暗くなっても帰ってこず、迷っていたところを庭師さんが迎えに行ったとか」
「そんなことまで……!」

 

次々とアーロン様の口から出てくるのは、城に奉仕を始めたばかりの幼いわたしが生み出した汚点だ。
「まだ幼いから」、「城に来たばかりだから」という理屈が通用する場所ではないので、今挙げられた失敗をする度にさんざん執事長からお叱りを受けた。今思い出しても非常に情けない。

そんな過去をアーロン様に知られているなんて、どれだけ恥ずかしいことなのだろう。なぜ執事長もそれを話してしまったのだ。
ただ、人づてな内容だけあって、所々に訂正を入れたい部分はあるが今はそれどころではない。

 

「昔の話です、今はそのような失敗はしません!」
「そうか。それはすまない」

 

つい声が大きくなってしまう。それがアーロン様にはまたおもしろいらしく、謝ってはいるけれど喉がくつくつと鳴っている。まったく言葉に行動が伴っていない。
むきになっているのは明らかに子供っぽいと自分でも思う。

 

「ですからはじまりの樹へも一人で行けますし、戻ってこれます」

 

なんならリーン様から許可をもらって本当に一人で行ってやろうと思い始めた。

 

「だめだ」

 

急にアーロン様の声が真剣味を帯びた。

 

「行くまでに危険な道も多い。そういう意味でも一人ではだめだ」
「だったら……」

 

だったらどうすればいいのですか。言いかけて言葉を飲み込む。
どうするも何もない。ただの反発なのだから、わたしがむきになることをやめて大人しくすればいいだけのことだ。
もう少し冷静に、大人にならなければ。いつまでもこんなことを言っていては歳不相応に見られてしまう。

 

「わかりました。申し訳ありません……ついむきになりました。行くのは諦めます」
「エストレア……勘違いしていないか?」
「はい?」
「“一人では”だめだと言ったが、行くのを諦めろとは言っていない」
「と、言いますと?」
「さっきも言っただろう?」

 

そう言って口元を上げた。今までそうじゃなかったわけではないけど、今日のアーロン様はよく笑う。

 

「私も一緒に行くのだから問題はない」

 

そういえばさっきもそう言ってくださっていた、とどこか他人事のように考えた。
同じような言葉でわたしはまた驚いてしまった。先ほどはそのまま迷子の話につなげられてしまったから、本当に迷子を心配する意味で言ったのだと思っていたが、どうやら違っていたらしい。

 

「お供が私では不満かな?」
「い、いいえとんでもありません! 不満どころか有り余るほどだと思います」
「そう言ってもらえるとお供のし甲斐がある」

 

アーロン様を「お供」にするなんて……なんて身の程知らずかと思える。むしろわたしがアーロン様のお供になるべきであるのに。
でもわたしがお供になったところで、道中何の役にも立たないのではないかと思えて勝手に気落ちした。

いつ行けるかもわからない。単なるこの場限りでの言葉かもしれない。だけどそれ以上に。

 

「本当に、連れて行ってくださいますか?」
「もちろんだ。約束する」
「では、その時は改めてお願いいたします」
「ああ」

 

アーロン様とわたしだけの約束ができたことが、嬉しい。