会う人は会釈をする程度で、その様子は明らかに敬遠だとわかる者もいたのに、最近はどうしたのだろうと不思議に思っている。
「アーロン殿、こちらにいらっしゃいましたか」
廊下で声をかけられて振り向くと、白い調理服を着た中年の男性がいた。少し首を傾げたことがわかったのか、男は気づいたように苦笑した。
「あ、失礼。私はこの城で料理人をしている者です。突然すみません」
「そうでしたか。こちらこそ知らずに申し訳ない。どうかしましたか?」
「アーロン殿にこれを」
渡されたのは中身が入ったビンだった。
「これは?」
「オレンの実で作ったジャムです。よろしければどうぞ。他の若い連中は、オレンの実はシンプル過ぎてつまらない味だとか言っていますが……」
「それはもったいないことをしている」
「そうなんですよ。アーロン殿はまだお若いのにその良さをよくわかっておいでのようで」
「ただの嗜好です。大したことではありませんよ」
たしかに好んではいるが、料理人ほど敏感に味の良さを感じ取っているわけではないので、少し過大評価され過ぎではないだろうかと思わず苦笑してしまう。
「こちら、ありがたくいただきます」
「よかった。それでは私はこれで」
「ええ。お疲れ様です」
親しみやすそうな笑顔を見せて、男は去っていった。
最近のアーロンを取り巻く人はこんな感じである。さっきの男ほど気軽にではないにしても、何かしらのことで声をかけてくれるのだ。
そして皆、アーロンの一面を垣間見ては「そうだったのですか!」と、それを知ったことを嬉しそうにして去っていく。
「何かあったのか……?」
今までと大きく変わったことは事実だった。硬い表情や視線を向けられることは減り、親しみを込めた対応をしてくれることが増えた。アーロンも相応の態度で接している。
徐々にそうなったことはアーロンにとって喜ばしいことだが、何がきっかけなのかはわからなかった。
そういえば、私がオレンの実を好んでいることを彼はどこで知ったのだろう。
渡したジャムがたまたまオレンの実だった、という感じではなさそうだった。疑問は残るものの、今までの苦悩に比べればまったく大した問題ではないのでアーロンはそれほど気にしなかった。
部屋に戻る途中の庭で、先日エストレアから教わった花の名前を復習しながら歩いた。
あの花は何と言ったか。この花はこの名前だ。さすがにすべての名前を一致させることはできなかったが、アーロンは一つの花の前で足を止める。
「クラスペディア、だったな」
一番最初に教わっただけあって、さすがにしっかりと記憶に残っている。
「おや、アーロン様ではないですか」
「ああ、これはどうも」
声をかけてきたのは城の庭師を務める老人だった。
顔を合わせたことは何度かあったが、言葉を交わしたのはそれほど多くない。それでも、穏やかな老人は以前からアーロンを敬遠している様子はなかったので、アーロンとしても話をすることに抵抗はない。
「クラスペディアを知っていらっしゃるとはさすがですね」
「最近知ったばかりの付け焼き刃の知識ですよ」
独り言が聞かれていたらしく微妙に気恥ずかしくなったので、アーロンは曖昧に笑った。
「植物に興味がおありで?」
「ええ、まあ。城の花は最近教わったばかりなので、さほど知りませんが」
「そうでしたか。では、花言葉はご存知ですか?」
「いえ、そこまでは知りません」
植物に象徴的な意味を持たせる言葉、という定義は理解しているものの、それぞれの植物が持つ意味までは知らない。そもそも、アーロンが城の花を知り始めたのは最近のことである。
「なかなかおもしろいものですよ。試しにクラスペディアの花言葉をお教えいたしますか?」
「ああ、それはぜひ」
新しい知識を仕入れておいて、お茶の時に話の種にするのもいいかもしれない。すでに彼女は知っている可能性もあるかもしれないが、その時はその時。
庭師は穏やかに笑って口を開いた。
「『心の扉を開く』という意味があります」
庭師から伝えられた知識に、とっさに言葉が出てこなかった。
「アーロン様、どうかしましたか?」
「……いえ、ずいぶん深い意味があるのだと驚きまして」
「よろしければまたお教えしますよ。植物の名前そのものはすでに教授している方がいらっしゃるようですから、私の出番はなさそうですし」
「なぜ、人から知ったとおわかりに?」
「先ほど、城の花は最近“教わった”とおっしゃっていましたよ」
気づかないうちに口を滑らせていたらしい。庭師はさらに言葉を続ける。
「エストレアさんがお教えしたのでしょう?」
「っ、なぜお気づきに」
その名前が出た瞬間わずかに体が震えたことは庭師には気付かれなかったようだが、だからと言って安堵する余裕はアーロンには無かった。
「先日お二人で庭にいらっしゃるのをお見かけしたので、そうではないかと思っただけです。……エストレアさんには少々、心当たりもありますし」
「心当たりとは?」
「それは私の口からは言いかねます。どうか、それ以上はお尋ねにならないでください」
そう言われてしまってはそのとおりにするしかない。
どうせこの老人と話す機会が得られたのなら、少しだけ聞いてみるのもいいかもしれない。
庭師の老人は『心当たり』に関してはそれ以上訊くなと言ったが、会話する気がないと言ったわけではない。異なる話題を投げてみることにする。
「あなたは、エストレアのことをよくご存知のようです」
「ええ、まぁ。幼少のエストレアさんがここに来た時より、遥か前から私はここにいますから。立派にお務めを果たすようになり大きくなったものだと、勝手ながら孫娘のように感じております」
老人はそう言って顔を綻ばせた。
「幼い頃はそそっかしかったですし、幼子らしくお転婆な面もありましたので、侍女としてもっと淑やかさを身に着けるよう指導者から叱られているのもよく見かけましたよ」
「それはそれは。今のエストレアからはあまり想像できませんね。……あ、いや、お転婆という面は私も少し知っていますね」
「おやおや、アーロン殿の前で何か粗相でも?」
「いえ、剣術をたしなんでいることを先日知りまして。最近では、私の弟子から体術の指南を受けているようですし」
「なんとまぁ……相変わらず女王陛下への献身ぶりが輝いていますなぁ」
そんな話をして互いに笑みを交わす。
また少しだけ言葉を交わした後、では植物に関することでしたらどうぞお気軽に、と残して庭師は再び植物の世話へと戻っていった。それを見送り、件のクラスペディアへ視線を移したアーロンは小さく息をつく。
城の人々との関係に悩む、根本の原因がわかった。
アーロン自身が硬い態度をとっていたのだ。いくら敬意があったとしても近寄りがたい雰囲気があれば、それは下の者にとっては敬遠の対象となっても仕方がないだろう。
特別視されることを恐れ、アーロンから歩み寄ることをしなかったことも原因の一つであることはもはや明確だった。
「『心の扉を開く』か」
花言葉を聞いたとき、不思議なほど胸に落ち着いて納得してしまった。自分がすべきは正にそれだったのだろう。
彼女はその意味を知っていたんだろうか。自己問題が解決に向かう今、気になったのはそこである。もし知っていたのならばあの時に話していてもおかしくないような気がするが、ただの偶然ということもある。
そこまで考えてから、不意に思考が切り替わった。
アーロンは先ほど料理人からもらったジャム入りのビンを小物袋から取り出した。城の誰かにオレンの実が好きだと言ったのは、アーロンの記憶では一度しかない。それもごく最近だ。
『辛いものは好みが分かれるからな』
『アーロン様は?』
『私もそれほど得意ではないな。オレンの実のような味がちょうどいいから好みだ』
──ああ。なるほど、そうか。
どうやら、偶然で片付けられることではなさそうだった。自分が知らないところで、誰かの見えない尽力が働いていたらしい。その結果が、最近における城の人々の対応の変化であって、さらに具体例を言えばこのジャムをもらうに至るということだ。
そういうことか。答えがつながった。
「たかが一人の知り合いのために、ここまでするか……?」
こんなことをする人の心当たりなんて、アーロンには一人しかいない。
少し口元が緩む。誰かがいたわけではなかったが、アーロンはつばを下げて帽子を深くかぶった。
*
「ルカリオ、最近のアーロン様はどう?」
『どう、というのは?』
「なんかこう……疲れた表情が多かったりしてない?」
『いえ、そんなことはありません。以前は修行に熱を入れ過ぎたと言って疲労が溜まっていらっしゃったようですが、最近は特に無いようです』
「そう。よかった」
そうか、ルカリオには言っていなかったのか。彼に心配をかけたくなかったのだろう。アーロン様はそういう人だとわたしは思っている。
城の皆も、アーロン様も、ただお互いをよく知らなかっただけだ。知ろうとすることを遠慮していた。知らないから、変な先入観やイメージが先行して余計にすれ違う。
アーロン様は近寄り難い人ではない。それをわかって欲しかった。
他の人と同じように笑うし、お菓子を食べるし、お茶の味を楽しむ。
皆はそれを知らないから、きっとアーロン様と何を話せばいいのかわからなかっただけなのだろう。最近では、そこは多少改善されているのではないか……と、思う。
この間は、意味は言わなかったけどついクラスペディアを最初に教えてしまった。あまり出過ぎたことはしないほうがいいのだろうけど、わたしにできることはこれくらいしか思いつかなかった。
とはいっても、わたしはアーロン様をよく知っているのかと言えばそうじゃない。自分で思うほど、わたしはアーロン様を知らないのだ。
敬意があったとはいえ異様に特別視してしまっていたことは事実だし、アーロン様がそれを気にしていたことも気づかなった。むしろ、遠ざけられても当然だ。幸いにも、今のところは遠ざけるような態度をとられてはいないけど。
「……よかった」
『何がです?』
「ううん、アーロン様が疲れている様子じゃなくてよかったと思って」
『お茶の時間にお会いしているのですから、エストレア様もおわかりになるのでは?』
「作り笑顔で無理していらっしゃる可能性もあるでしょ? でも、その時間以外のアーロン様を見てるルカリオが言うならきっと大丈夫だね」
今日のお茶の時間もそれとなく様子を見てみたけど、暗い表情はなかった。なんだか嬉しそうにしていたので何か良いことがあったのかもしれない。
向かいに座っていたルカリオが深く息を吸って吐く。精神の落ち着きと集中を兼ねた休憩は終わりの合図だ。わたしも同じように深呼吸をして立ち上がる。
『では、今日の復習のためにもう一度組んでみましょう。今日はそれで終わります』
「はいっ」
もし仮に本当に孤独になってしまったとしても、きっとアーロン様は、そういうものなのだとして受け入れてしまうのだと思う。
時と場合によってはアーロン様は孤独も何も恐れない。
ですがアーロン様、あなたを受け入れてくれる方はたくさんいます。わたしにはそれを少しお手伝いすることしかできませんし、わたしの敬意が伝わっていなかったとしたらそれはわたしの過失です。
それでもどうか、孤独を受け入れるなどということはしないでください。
己の心身を犠牲にして、お一人で諦めてしまうことをしないでください。
わたしは、それがとても悲しいのです。