波打ち際の一人

今、アーロン様は孤独にひどく近い状態にあると思った。

完全な孤独にならないのは傍にはルカリオがいるからだ。だけどそれ以外には、この城でアーロン様を慕い、支えになる人はどれほどなのだろう。どれだけの人が、アーロン様を心から敬っているのだろう。

敬意や特別視が敬遠に変化し、その人を孤独にする。
アーロン様は、わたしにそのことに気づいて欲しくて言ったわけではないのかもしれない。でも、それを自分で口にすることはとても苦しかったんじゃないだろうか。
アーロン様を見送って部屋に入ると、急に力が抜けて図鑑が手から滑り落ちた。

ああ、ごめんなさい。心の叫びに気付かなくて、ごめんなさい。

どうしてわたしは人の心を汲み取るのが、こうも下手なのだろう。人や言葉の表面だけを見て、その奥の真意は言われるまで気付かない。だから皆がアーロン様に敬意を払っていることで安心していたし、そんなアーロン様をすごいと思った。
なんて馬鹿なのだろう。その「すごい」という感情が、アーロン様を特別視することにつながっていたというのに。それがアーロン様を追い詰めていたのに。

 

「なんで、気づかなかった……!」

 

ルカリオほどではないにしても、自分だってアーロン様の近くにいたはずなのに。
泣いてはだめだ。わたしが泣いて何の意味がある。自分の情けなさを憂う前に、できることを考えろ。

口を噛みしめていると、下唇が切れたのか血の味がした。それで涙が堪えられるなら、かまわない。だけど、視界が少しぼやけてしまうことは避けられなかった。流れる前に袖で拭って消去する。
落としてしまった図鑑を拾って机へ向かう。唇から出た血がぽたりと一滴机に落ちた。傷を布で押さえると、今さらながら痛みを感じる。

わたしにできること。
今のわたしがアーロン様にできることなど、実際は何もないのかもしれない。

アーロン様には明日も行くと言ったが、今のままでは明日のお茶の時間はひどいものになってしまいそうだ。それでも、改めて行くと宣言してしまったのだから、わたしには今までどおりの雰囲気でお茶を楽しんでいただけるようにする責任がある。
机にかじりついて図鑑をめくり、城内の植物一覧表を広げた。

 

 

アーロン様と外に出たことで、いつもと同じ雰囲気にすることはうまくいったらしかった。
植物の話をすることで話題にも困ることはなく、気持ちが一段落ついたところで部屋に戻っていつものようにお茶を入れる。根本的な解決は何もしていないけど、今日はひとまずいつもどおりだ。

 

「ルカリオやウインディから聞いたが、最近ルカリオから体術の稽古をつけてもらっているそうだな」
「ご存知だったのですか?」
「先日、ウインディが口を滑らせた形で聞いた」

 

ルカリオのことだから、師であるアーロン様を差し置いて人に稽古をつけているというのは言うに言えなかったのかもしれない。ウインディに悪気はなかったのだろうけど、アーロン様の前でつい口をついてしまったのだろう。

 

「申し訳ありません、わたしからお話しすべきでした。ルカリオは慌てたでしょうね……」
「ああ、とてもな。だが気にしなくていい。格闘に関してはルカリオのほうがうまく教えられるだろう」

 

そう言ってアーロン様は笑った。きっと、アーロン様もできるのだろうけど、それだけルカリオを評価しているということだ。

 

「そういえばこの間、ウインディがクラボの実を食べたんですがどうやら口に合わなかったようです」
「想像がつく。辛いものは好みが分かれるからな」
「アーロン様は?」
「私もそれほど得意ではないな。オレンの実のような味がちょうどいいから好みだ」

 

そうでしたか、と相づちを打つとアーロン様はお茶を飲んだ。アイスティーにしたのは初めてだったけど、お気に召してもらえたらしい。

 

「……」
「エストレア?」
「っ! え、はいっ!」
「……眠いのか?」
「あ、いえ、違います。大丈夫です」

 

無意識に舟を漕いでいたようで、慌てて姿勢を正した。
アイスティーにより冷たいものが体を通る感覚に、冷たさに比例して頭がすっきりすることはなかった。
ひどく瞼が重い。まずい。お茶の席で眠くなるなんてアーロン様に失礼だ。曖昧に笑ってごまかす。

 

「大変失礼を……。昨夜はなぜか寝つきがよくなくて」
「無理することはない。ここで休んだらどうだ? 私は席を外そう」
「いえ、そんなことなさらないでください!」

 

他人の部屋、しかも男性の部屋で一人寝ていたなんてことが知れたらきっとひどいお叱りを受けてしまう。なによりそれ以前に、アーロン様に申し訳ない。

焦りで目が覚めるかと思いきや、今ので変に神経を使ったせいで余計に疲労感が押し寄せてくる。瞬きがつらい。
もう自室に戻ったほうがいいだろうか。でも、わたしとアーロン様のカップにはまだ半分以上お茶が残っている。そのままにして行くことはできない。八方塞がりとはこのことか。

 

「それなら、エストレア」

 

視線を向けると、アーロン様はご自分の左肩をぽんぽんと叩いた。

 

「……え?」

 

間違っていなければおそらく言いたいことは伝わった。が、しかし。

 

「ベッドで休まず、私が席を外すことをしなければお叱りを受けることはないだろう?」

 

少しいたずらっぽく笑うアーロン様にわたしは返す言葉がない。それが思考が停止したからなのか、眠気による反応の遅れなのかはわからない。たぶん両方なのだと思う。
アーロン様の行動と言葉から推測するにそれは、わたしに肩を貸してくださるということだろう。

 

「けっこうな妥協策だと思うが」
「いえ、あの、」
「このままだと、夜の仕事やルカリオとの稽古にも差し支えるんじゃないか?」
「それは……」

 

ごもっともな意見になんと反論すべきなのか。眠い頭で懸命に考える。

今のわたしは非常に眠い。アーロン様が席を外してこの部屋で休むなどということは論外。アーロン様は善意で言ってくれているし、その善意を無下にするのも申し訳ない。仮に私が眠ったとしても、アーロン様はお茶を楽しんでいられる。

正直な話、この提案は今のわたしにとってはメリットしかない。
わずかな抵抗は目上に対する礼儀と、男性に対する免疫の無さであることは自分でわかっている。そこまで考えている間にも落ちてきそうな瞼を必死に上げる。……だめだ、反論なんて何も思いつかない。

 

「……限界だな。見ていられない。遠慮も拒否権も無しだ」

 

あまりにも眠そうなわたしに苦笑したアーロン様は、椅子ごとわたしのすぐ隣に移動してきた。
ここまで来たらもう、わずかな抵抗すらも眠気に押しつぶされてしまう。

 

「エストレア」

 

名前を呼んでくれるその声は、どこか心配を含んでいるように聞こえる。心配になるから少しでも休んでくれ、と。
眠いせいで自分に都合のいい解釈しかできないのだなと思いつつ、小さく頷く。

 

「申し訳ありません……少し、失礼いたします」

 

アーロン様の左肩、正確に言えば二の腕のあたりに頭を預けた。

 

「……アーロン様、リーン様や執事長には内密に願えますか?」

 

いくら休憩をいただいていると言っても、皆が働く昼間に居眠りするというのはあまりいいことではない。言わなくてもアーロン様が告げ口するなんてことは思っていないけれど、これは反射的なものだ。

 

「ああ、約束しよう」
「ありがとうございます……」

 

懸念事項が消えたことで一気に体から力が抜ける。
昨夜夜更かししたのはわたしが自分でしたことなのに、アーロン様にこんなことをさせてしまうなんて。

寝つきがよくなかったから、なんて嘘はばれてしまっただろうか。そんなことすら今は考える余裕がない。
でもまさか「植物の名前を覚えるために勉強していたら夜が明けていました」なんて理由を言えるわけないし、それを素直に言う必要なんてどこにもないのだから、追及された時のための適当な理由を考えておこう。

 

 

 

ありがとうございます、とつぶやくように聞こえた後、ゆっくりと肩が上下し始めたのでどうやら彼女の意識は落ちたらしい。

本当は自然に目が覚めるまで寝かせてあげたいが、エストレアの休憩時間、つまりはいつものお茶が終わる時間までが限界だろう。あまり長い時間ではないが、それまでには起こすことにしよう。

目覚めるまで起こさないという方向の気遣いはエストレアは望んでいないだろう。あくまでも予想だが。
もしも、何を根拠にそう思うのだという問いを受けたらきっとアーロンは答えられない。根拠なんてご立派なものを提示できるほど、自分は彼女のことを知らないということは理解している。
いや、理解した。今頃になって。理解したから、昨日の自分がいかに愚かだったのかも再確認した。

私はエストレアの何を知っていた? 彼女に対して失望するほどの何かを理解していたのか?

そんなわけない。アーロンが城の人々との付き合いに対して不安があることは事実だが、それと今回の彼女個人のこととは別の問題なのである。後者はアーロンが自分で作り出してしまったことだ。

ふと首だけ動かして視線を左下に向けると、ひとつ気になった。
エストレアの下唇に赤い線のようなものが引かれている。気づかなかった。
もっとも、位置的にも遠目ではわからないし、エストレアが部屋に来たときは心境的にそれどころではなかったせいもあるが。

 

「……血、か?」

 

細い赤黒の線は血が固まったかさぶただ。
なぜそんなところに傷があるのか。少なくとも昨夜会ったときにはなかったはずだと考えるが、その理由をアーロンが知る術はない。

カップに残っていたお茶を飲み干して、軽く息をつく。
まだ、小さなわだかまりは消えていない。アーロンも彼女も今はお互いに、そこを避けているだけだ。だけど今日はひとまず置いておく。左側にある温かさと少しの重みが、なんだか安心する。

──あとどのくらいこうしていられるだろう。
起こす時間を忘れることはしないが、少しでも長くこの時間が続いたらいい。