その日、アーロンがいつもより早く起きたことに特に理由はなかった。ただ単に、ふと目が覚めたらそれがいつもより早かったというだけで。
ベッドではなく、床に布を敷いて眠っているルカリオもまだ目覚める様子はない。
この部屋にベッドは一つしかないが大きさはそこそこのため、共に寝てはどうかという提案を最初にしたのだが「そのようなおこがましいことはできません」という弟子の一言で却下された。まったく、よくできた弟子である。
二度寝するような気にもなれなかったアーロンはマントを羽織り、ルカリオを起こさぬように静かに部屋を出た。
多少は明るいが、まだ太陽は出ていない外は濃い霧がかかっている。
散歩がてらに歩き始めると、ヒュンッと空を切るような音がした。それに合わせてかすかな息遣いも聞こえる。息遣いは途切れることなく、一定のリズムを保ってアーロンの耳に届いた。
誰かいるのか? こんな早い時間に。
アーロン自身もその「誰か」のうちに入ってしまうが、少なくとも自分以外にもこの時間に起きて外に出ている者がいるということだ。足を進めると音はだんだん近くなるが、霧のせいで場所も人物も特定することができない。
アーロンはそっと目を閉じた。そして、感覚を広げていく。
波導の感知は霧によって遮られることはない。目で見ずとも周囲を感知することができるのが波導の基本的な部分だ。
やはり人がいる。剣のようなものを振るっているらしく、これが先ほどからの音の正体のようだ。だが、それとは別にアーロンには気付いたことがあった。この波導は……。
「……っ!」
目を開け再び進もうとした瞬間、音が止まった。一気に訪れた静寂になんとなく動き出すことがはばかられた。その先にいるであろうその人に、突然声をかけるのもなんだか気まずい。自分でこちらへ来ておいてなんだが、どうしたものかとアーロンは動けないでいる。
上がった呼吸を整えているのか、ふぅ、と一息が霧の中で聞こえた。その直後の「ん……?」という小さな声の後に、また周囲は静かになる。
「アーロン様?」
こちらが見えていないはずの相手から、まさか名前を呼ばれるとは思っていなかったアーロンはとっさに返事ができなかった。そして、相手が誰なのかという答えは今の声で正解に行きつく。
「アーロン様……? そちらにいらっしゃいますか?」
「……ああ、ここだ」
太陽が昇り出し先ほどよりも周囲が明るくなったせいか、それとも相手が近づいているせいか、ぼんやりとしていた姿は徐々に鮮明になった。
「ああ、よかった。やはりアーロン様でしたか、おはようございます」
「おはようエストレア」
霧の中から現れた彼女は、いつも会う度にそうしてくれるように挨拶をしてくれた。こんな早朝に会ったのは初めてだったが、朝でも昼でもそれは変わらないらしい。
「ずいぶんお早いのですね」
「たまたま早く目が覚めてしまったんだ。エストレアこそ、なぜこんなに早く?」
「ああ、わたしのは毎日の日課です」
日課、と言うエストレアの手には木剣が握られている。これが、日課…?
さっきまでエストレアがこれを振るっていたことはアーロンは知っている。あれは素振りだ。それはわかる。だが、目の前の少女と、木剣や素振りがうまく結びつかない。その疑問がそのまま表情に出ていたのか、エストレアが口を開いた。
「『守られるより先に守れ』」
「……ん?」
突然の格言のような言葉にますます疑問が増える。
「先代の女王様……リーン様のお母上の教えです。誰かに守ってもらう前に、まず自分が守る力を持て、と。守られるだけはただの無力。失うだけだ、とリーン様やわたしに教えてくださいました」
これはそのためです、と手にある木剣に視線を落とした。
「この国はずっと平和主義を唱えている国ですが、いつ何が起こるともわかりません。だからいざとなったとき、わたしはリーン様やこの国を守るための力を持っていたいのです」
そう言って見上げてくる目はとてもまっすぐで、アーロンは逸らすことができなかった。ひどく納得してしまう何かがあった。エストレアはアーロンを見て安心したように笑った。
「アーロン様が笑わずに聞いてくださって、嬉しいです」
「笑う? なぜ?」
「他の侍女や執事様たちからは、女が剣など持つべきではないと言われることも少なくないので……」
苦笑するエストレアにアーロンは息が詰まった。
先代からの然るべき教えを貫こうとする。そのために、日々鍛錬を重ねることを否定する者がいるという事実にだ。
自分のためだけではない。リーン様や国を想って行動することに、男も女も関係ないだろう。彼女をどうして笑うことができる。
「エストレア」
「はい」
「私は決してあなたを否定しない。笑うなどもってのほかだ。……安心していい、あなたは正しい」
それは約束事のような響きを持った。
エストレアの目が見開いた。驚いたのだとわかるが、その次には表情が崩れる。数少ない、自分を肯定してくれたことに戸惑ったように見えた。
「ありがとうございます、アーロン様」
それでもそこには嬉しさがにじんでいた。
その話に一区切りがついたところで、エストレアは徐にアーロンへ訊ねた。
「アーロン様、失礼ですが……その癖は寝癖なのでしょうか?」
言われて、アーロンは今は帽子をかぶっていないことを思い出した。寝起きにマントを羽織っただけであるため、いつもどおりにすべての小物まで身に着けていなかった。
「ああ、いや。寝癖も含んでいると思うが、元々の癖がひどくて直らないんだ」
「それはお気の毒に……」
アーロンの髪は非常にぼさぼさで、それが元の癖だということにエストレアは驚いたらしい。お世辞にも綺麗とは言えない髪型であることはアーロン自身も自覚しているが、今は内心とても焦っていた。
失態だ。なんてだらしない格好で出てきてしまったんだろう。
エストレアは女王の侍女という仕事柄、自他問わず身だしなみには嫌でも目が行ってしまうはずだ。そんな人を前にして……。アーロンは数分前の自分を呪った。そもそも寝起きの姿で城内をうろつくものではない。
「こんな格好ですまない」
「お気になさらず。こんな格好、というのはわたしも同じですから」
気を遣ったのかどうかはわからないが、その一言で少し心持ちが楽になった。
そんなエストレアはというと、厚手の長袖の上下という簡単な服装だった。剣を振るう日課のためなのだろうが、侍女としてのいつもの服装に見慣れていた分とても新鮮に見える。
新しい一面だな。服装がという意味だけではなく、エストレアが剣を持つということも含めてだ。否定はしないが、驚きはどうしてもあった。
「アーロン様の寝起き姿を拝見できるとは、今日は貴重な日になりそうです」
「……できれば心に秘めておいてくれるとありがたいんだが」
寝起き姿がどのようだったか。もしくは寝起きのままで城内をうろついていたなんてみっともないことは、広まらないに越したことはない。
「ご安心ください。このようなめったなことは人に広げるより、自分内で楽しむほうがいいですから」
「いや、それもそれでいい気持ちはしないな……」
真顔でさらりと言うエストレアにアーロンは顔が引きつるのを感じた。おおっぴらにならない分、むしろそちらの方が穏やかではない。
「冗談です。そんな悪質なことはいたしませんし、誰かに言うつもりもありません」
エストレアはいたずらっ子のように笑う。……これは、負けた。アーロンは思わず脱力した。
この日はアーロンが城に来てから、最も濃い朝になったことは言うまでもなかった。