「よし、今日はここまでにしよう。明日、今日の分を反復してから次の段階へ進む」
『はい!』
オルドラン城から少し離れた森の中で修業は行われていたが、いい頃合いだとアーロンは一区切りをつける。
ロータの町とオルドラン城をつなぐ長い橋を渡り二人が城へ戻ると、待ちかねたという様子でウインディが駆け寄ってきた。
「ガウッ!」
「ただいまウインディ。また出迎えてくれたのか」
いつものようにアーロンが頭を撫でると、その言葉を肯定するようにウインディは声を上げた。
初日の出会いこそあれだったが、この数日でウインディは随分と彼らと親しくなっていた。他の召し使いたち曰く、このウインディは人に慣れるのに時間がかかるというのだ。どうやら意外にも人見知りをするらしい。だからこそ、この短期間でウインディがこれほど人に懐く様子を見せるのは、エストレアやリーンなど一部を除いた者には珍しいのだと他の者たちから聞いた。
ウインディはルカリオへ近づくと親しげに口を開く。
「ガウッ?」
『え、闘技場で?』
「ふむ。闘技場で組み手か」
ウインディの言葉を理解しているアーロンは、突然の提案に戸惑いがちに見上げてくるルカリオの背中を押した。
「私に遠慮せずに行ってくるといい」
『ですが……』
「身体を強くすることも大事な修行と言えるぞ、ルカリオ」
『……わかりました、では行ってまいります』
アーロンが傍にいる手前、遠慮が抜けきらないルカリオだったが、師からの言葉が腑に落ちたためウインディについて闘技場へ向けて駆けていった。
ウインディは組み手と言っていたが、おそらく遊びに近いものだろう。ルカリオは根を詰め過ぎる部分があることを知った上でかはわからないが、時折ウインディがああして連れ出してくれることはいい息抜きになるはずだ。
彼らを見送ったアーロンはいつもどおり庭を歩いて部屋へ向かう。
「アーロン様!」
「ん? ああ、エストレア」
扉へ手をかけた刹那、呼び止められた。小走りで駆け寄ってきた少女は軽く息をついた。
「今お戻りになられたのですか?」
「ああ。ついさっきだ」
「それでしたらちょうどよかったです。今、リーン様はお茶の時間で、アーロン様たちにもお茶をお届けするよう言われたのですが……よろしければいかがでしょう?」
ちょうどよかった、と言うエストレアの手にはティーポットやカップ、そしてお茶請けだろう布に包まれたものが入ったバスケットが下げられていた。
特にその申し入れを断る理由はなかった。そのうえ、リーンからの心遣いとあればなおさらだ。
「それはありがたい、ぜひいただこう。では、部屋へ」
「はい。失礼いたします」
部屋へ通されたエストレアは小さなテーブルの上にバスケットを置き準備を始める。準備は手際よく終えられ、アーロンの前にはお茶の入ったティーカップが置かれた。
「どうぞ、アーロン様」
「ありがとう。……エストレアの分は?」
「え? いえ、わたしがご一緒するわけには」
「カップは二つあるようだが。……一人でというのは味気ない。よかったら同席してくれないか」
少し考える表情のあとで「では、失礼して……」とエストレアは椅子へ腰かけた。それを合図にアーロンはカップを手に取った。洗練されたデザインのカップへ注がれた紅茶はほのかに甘い香りがする。
「いい香りだ。……普通の茶葉の香りだけではないな」
「正解は何でしょう? わかりますか、アーロン様」
思いがけず始まった問題に、アーロンは改めてカップを顔へ近づける。
どこかでかいだことがあるような、そうではないような。記憶の中にある様々な香りはこの紅茶の香りとうまく結び付かない。紅茶の香りがメインになっているせいだろうか。
このままでは答えにたどり着けないと思ったアーロンは、降参、というように首を傾げた。
「すまない、降参だ」
「それは残念です。飲んでいただければおわかりになるかと」
正解発表は実飲でということで、一口お茶をすするとようやくその正体がわかった。
「……ああ! モモンの実か」
「そうです。比較的わかりやすいかと思ったのですが」
たしかに甘いモモンの実そのものは、きのみの中でもわかりやすい味だ。だがそれがお茶と一緒になるだけでここまで優雅な味になるとは思わなかった。アーロンは困ったように笑う。
「申し訳ない。こういうおしゃれなものは不慣れでね」
「回数を重ねれば慣れるかもしれません。またお持ちします」
また、ということは言葉通りまた来てくれるということだろうか。
ふとした思考はエストレアが何かを包んだ布を取り出したことで途切れた。
紅茶とはまた違った甘い香りがする。さすがにまた香りだけで中身がわかるか、というような方向へは進まず、アーロンの杞憂をよそにエストレアは布を広げた。
「スコーンか」
「はい。甘さが控えめなので、足りない時はジャムをお好みでどうぞ」
グローブを外してからスコーンを一つ手に取ったアーロンは、半分に割ったそれをさらに一口分の大きさにして口へ運んだ。たしかに甘さは控えめだが紅茶が少し甘めな分、これはこれで充分なように思える。
「これはおいしいな。また食べたくなる味だ」
「それはよかったです。料理人に伝えておきますね」
「そうしてくれ」
おいしいと思ったからおいしいと、そう言葉にしただけだったが、彼女が少し驚いたような顔をしたのはなぜだろう。
エストレアのその表情はすぐに消えてしまったので、疑問を解決するには至らなかった。
*
アーロンとルカリオにもお茶を届けてあげなさい。
リーン様からそう指示が出されたのは、公務の休憩にいつも通りお茶とお菓子を用意した時だった。
「アーロン様とルカリオへですか?」
「個人的な修行とはいえ、彼らは毎日のように努力しているのです。せめてもの休息として届けて差し上げなさい」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
我が主のなんとお優しいことだろうか。そう思いながら、一礼して部屋を出ようとした。
「向こうでお茶を用意するついで、あなたも一緒にお茶をいただいていらっしゃいな」
「え……、そんな、そのようなことはできません」
一端の侍女に過ぎないわたしはアーロン様よりも低い立場だ。そんなことを軽々しくしていいとは思えない。
「届けたお茶を片付ける必要もあるでしょう? 一日に何度も部屋を訪ねることは逆に失礼にあたりますよ」
届けることは造作もない。片付ける時はお茶が終わったであろう時間に再び訪ねればいいと思っていたけど、リーン様の言葉に納得した。
たしかに、小さな用事で何度も部屋に来られるのは迷惑かもしれない。配慮の足りなさを反省する。
「ごもっともです。ですが、やはりご一緒することはできません」
アーロン様たちへの気遣いはわたしも賛成だ。そして、さりげなくわたしに対して「休憩をしてきなさい」という隠れた指示をくれたのだということもわかった。その配慮はとてもありがたくて、リーン様の優しさに泣きたくなるほどだ。
だがそれでも、目上の人とお茶に同席するなんて、おこがましくてとてもじゃないが耐えられない。
「アーロンは気にしないと思うけれど」
「わたしが気にしてしまいます。お伺いを立ててから、また片付けに向かうことにいたします」
「本人たちがいいのなら、それでかまいませんよ」
そんなやり取りをしてここに来たというのに、わたしは何をしているのだろう。
結果、アーロン様とお茶を楽しんでいる状況に頭を抱えたくなった。
リーン様の言っていた通り、アーロン様は立場の違いなどは特に気にしていないらしい。よかったら同席してくれないか、なんて言われては突っぱねるのも失礼だ。あえなく撃沈してしまった。
意志薄弱な自分に内心ため息を吐きながら、そういえばこの部屋にいるべき者が一人いないな、と思い出す。
「ルカリオはどちらに?」
「ああ。ウインディと闘技場へ行っている」
「前にもありましたね」
それでも今はそれに感謝だ。わたしの使っているカップはもとはルカリオの分として使うものだったのだ。それを自分が使っているのは少々負い目に感じられる。
ごめんなさいルカリオ、と心の中で謝罪した。
「彼らなりの息抜きだ。ウインディの気遣いでもある」
「そうですか。では、この二つはルカリオにお渡しください」
ルカリオの分のスコーンを布に包み直してアーロン様の傍へ置いた。
「知らない間に一つ減っているかもしれないな」
「もしそうなれば犯人はすぐにわかりますね」
「それだけ、これがおいしいということだ」
初日の時のように冗談を披露するアーロン様に笑い、わたしも一つスコーンをかじった。あとでウインディにもあげなくてはいけない。彼はきっと二つでは足りないだろうけれど。
最初は少し腰が引けたけど、話をしているうちにだんだんそうではなくなった。アーロン様と同じ空間はなんだか心穏やかになる不思議なものだった。