天使たちの潜入

指定のポイントまでは手配された車で移動した。
そこからは少しだけ歩くことになる。

 

「車で移動できないとは、非常に困るね」
「大した距離じゃないから我慢してね」

 

私たちの降りた車が移動していった途端にミカエルは文句を垂れた。文句というよりは、素直な感想といったところか。

苦笑しつつも建物の陰からそっと顔を出すと、綺麗な建物へとちらほら人が出入りしているのが見える。

 

「どう?」
「うん、大丈夫そう。時間通りに始まるだろうからそろそろかな。確認だけど、私たちは軍の関係者じゃないってことで入るから、気を付けてね」
「ああ、わかっているよ」

 

ミカエルは答えながら、肩から下がりそうだったファーをそっとかけ直した。
ミカエルはマイペースゆえにどこか天然なところもある。私とは違うベクトルで諜報向きではないと思うが、いつになく声には真剣さが感じられた。

 

「早く終われば、その分だけ早く城に戻ってピアノが弾けるからね。僕も長居はしたくないんだ」
「私、それに巻き込まれてるんだけどな」

 

真剣さの理由はそれか。
あまりにも彼らしくて笑ってしまったが、考えてみれば今回の諜報を渋ったミカエルが私の名前を出したから、急遽私が駆り出されることになったのだ。
それに関して何も思わないと言うと少し嘘だ。しかしミカエルは私に顔を向けると首を傾げた。

 

「おや? そうなのかい?」
「だって、ミカエルがハークスさんに私の名前出したって聞いたけど」

 

ミカエルはふむ、と顎に手を当てる。
どうやら彼によると『行くなら粗野な兵士や諜報員ではなく、知っている小隊にいる見知った女性兵士のほうがやりやすい』とハークスさんに言っただけだという。
ミカエルの告げた部隊名と、兵士の個別ナンバーコードは丸っきり私のそれである。

 

「……それ、思いっきり私じゃん」
「君の名前は出していないけれど」
「言ってるのと一緒だよ」
「そう。それはすまなかったね」

 

彼に悪気はなく、且つ今も特に悪いとは思っていないんだろうなというのはよくわかった。
まぁミカエルの性格だから仕方がないかと小さく笑う。

 

「けれど、エフさんも君のことを話していたし」

 

不意にエフの名前が出て、思わずミカエルを見る。
直接目が合っているわけではないけれど、包帯に覆われた未知なる瞳とかち合った気がした。
しかし出てきた名前が名前だけについ不信になってしまう自分がいた。

 

「エフが何を言ったの?」

 

大方予想は付くけれど。
どうせ、私が愚図だとか諜報向きじゃない粗野な兵だとか、今回の場に不釣り合いで上品さの欠片もないだとか、そういう類いのことだろう。

 

「うん。君は、諜報向きではないけど芯が強いし、物怖じしないし、いざというときも役に立つだろうって言っていたよ」

 

言われて、言葉を失った。ついまばたきを繰り返す。

 

「……誰がそれを言ったって?」
「ん? エフさんだけど?」
「冗談でしょ?」
「いや? 出発前、僕が君を探している時にそう言っていたよ」

 

へぇ、とつい相槌が短くなった。動揺でだ。

ミカエルが嘘を言っているとは思えなかった。彼がそんな嘘を私に言う必要はまったくないからだ。だから信じざるを得なくて、動揺に拍車をかける。

エフは、普段からあれだけ人のことを愚図だのなんだと言っているくせに、ミカエルが言った内容はそれとは真逆だ。
普段の軽口を気にしていたわけではないが、あまりにも。あまりにも良い意味の評価をされていて。

諜報開始前にミカエルはなんて爆弾を投げてくれたのだろうか。
しかし動揺していられる時間は長くない。落ち着かせるように、息を吐き出す。

 

「そろそろ時間かな?」
「そうだね。そういえば、エスコートは私がしたほうがいい? あ……、したほうがよろしいかしら?」

 

『全盲の彼をサポートする付き添い』という役のためもあるが、どのみちミカエルの視界は塞がれている。
役作りの意味も込めて口調も変えながら手を差し出そうとすると、ミカエルは小さく笑って人差し指を私の唇に当ててきた。急な接触に素直に驚く。

 

「ノン、綻びが出るから慣れないことはおよしよ。エスコートは僕がやるから、君は与えられた役と、諜報の役割だけをこなせばいい」

 

視界が塞がれているとはいえ、ミカエルの動きに不自由さが見受けられないことは私も知っている。それなら私が慣れないことをするよりは、言う通り彼の所作に任せておいたほうがよさそうだ。

唇に触れていた指から頷いたのが伝わったか、ミカエルは指を外す。しかし何かに気が付いたように指をこすり合わせると、少しばかり眉をひそめた。

 

「ベタベタする……」
「あ……。ごめんね、口紅が付いたんだと思う」

 

そういえば今の私は、普段はしない化粧をしていたのだった。
この諜報のために、わざわざエフが施してくれたプロ並みの化粧を。

 

「服装はいつも通りなようだけど、今日の君は化粧をしているんだね」
「まぁね。慣れた服のほうが何かあったときに動けるし。……指拭くからちょっと待ってね」

 

いつも通りの服装とはいえ、普段からそれなりに質のいいスーツを着ているので、ミカエルと並んでも違和感はないだろう。パンツスーツなのはご愛嬌である。

内ポケットからハンカチを取り出し、ミカエルの手を取って指先を拭く。
するとミカエルはそっと私の手に自分の手を重ねてきた。何かを確かめるように手の甲を撫でられる。

 

「君、手袋をしているの? いつもはしていなかったと思うけれど」

 

ミカエルは視界が覆われている分、触れればいろいろなことに気が付くのだなと笑みが浮かぶ。

 

「うん、今日はね。社交場だからフォーマルさは大事でしょ?」
「リストレングスか。機動性を重視しているのかな。君らしくていいね」
「それはどうも」

 

小さく笑いながら、拭き終えたハンカチをしまってミカエルの手を離す。
べたつきがなくなったことを確認してから、ミカエルはこちらに手を差し出してくる。

 

「それじゃあ行こうか。よろしく頼むよ、僕の婚約者のブランシェ」

 

役の設定と偽名を呼ばれて、私も自然と気持ちがシフトしていく。少し上を見上げて息を吐く。右手の手袋を引っ張り手になじませれば、もう気持ちも準備も出来上がっていた。

 

「こちらこそ。どうぞよろしく、私の婚約者で全盲ピアニストのミゼル」