誰かが泣いている。聞こえる声は確かに泣いている。
暗い周囲を見回してみたけれど、見回す必要などなかったらしい。その誰かは目の前にいた。どうして私はすぐに気づかなかったのか。
女の子が泣いている。大人には程遠い、本当に少女と言える子どもだ。
その場から動けないのか、座り込んで泣いている。声を上げて、たくさんの涙を拭って。
私は何も言わなかった。泣く声を煩わしい、やかましいとも思わなかった。
ひとつゆっくりまばたきをした。一度目を閉じて、開ける。
すると目の前にいた女の子は、立ち上がっている。しかしそれでも涙を流している。
先ほどと違うのは、声を上げてはいないこと。涙は頬をゆっくり伝う程度であること。泣きじゃくってはいないこと。
私は何も言わなかった。女の子を見据えていた。
またひとつ、ゆっくりまばたきをした。また目を閉じて、開ける。
目の前の女の子は、今度は泣いていなかった。しかしそれは晴れやかな顔をしているわけではない。
私と向かい合っているはずなのに、ぼんやりとどこか遠くを見ているようだった。そして女の子は少し顔を下げる。
再び顔を上げた女の子は、まるで火でも点いたような、強い目をしていた。
唇を強く噛み、拳をぎゅっと握りしめ、何かを堪えるように。
そして私に背を向けた。女の子は、その暗い場所からいなくなった。
私は目を開けた。
そこは暗い場所ではなかった。白くて温かいベッドの中だった。
視界には、しわのついた濃いグレーのシャツが見える。
「あら、起きた?」
声が聞こえて顔を上げる。アメジストのような綺麗な目がこちらを見ている。
「エフ……」
寝起き特有の掠れた声で名前を呼んだ。すると挨拶を続けるより先に、彼の綺麗な目は驚いたように大きく開かれた。
「……なに、泣いてんのよ」
指摘することをわずかに躊躇ったような問いかけだった。
ああ、やっぱりか。視界が少し歪んでいるのも、目の端が濡れたように感じるのも、涙が出たせいなのか。
どうして涙が出たのか。自分でもよくわからなかった。
泣く理由など何もなかった。しかし今の私は、得体のしれない何かを悲しく感じている。
悲しくて涙を流したのなんて、いったいいつ以来だろう。随分長いことそんなことをしていなくて、さっぱり覚えていない。
泣く理由がなかった。泣いても意味などなかった。
泣いたところでどうにもならない。いつからかそんな風に思っていた。今でもそれは変わらない。
むしろ、泣くような弱い自分など必要ない。弱くないからこそ、私はここにいる。
闘える強さがある。兵を率いる強さがある。引き金を引く強さがある。
誰かに頼らなくても生きていけるだけの強さは、持っているはずなのに。
それなのに、何を血迷ったか、私は今エフの前で涙を流したのだ。……いや違う。これは泣いたのではない。
「あくびが出ただけ」
小さく笑った。自分にも、エフにも嘘を吐いた。
まぁ私が泣いたところで、私らしくないとエフは気味悪がるかもしれない。いっそそのほうがいい。
自分が手を動かすより先に、頬に手が触れた。肌の綺麗なエフの手だ。
「あっそ」
エフは不満げに眉を吊り上げたが、それ以上追及もせずに彼の指先が涙を攫っていった。
小さくため息が吐かれたと思うと、背中に腕が回り抱き寄せられた。
「そんなに眠いなら寝てなさい。まだ時間あるから」
その言葉を聞いて、思わず口元が緩んだ。
きっと私が涙なんて流してしまったのは、このせいだ。エフがいてくれるようになったからに違いない。
誰かが自分といてくれることの安心と、喜びと、一時のささやかな幸福と。それを得るようになってしまったからだ。
私は、弱くなったのだろうか。できれば強いままでいたい。
弱みもなく、あったとしてもそれを見せずひとりで生きていけるくらいには、強くありたい。
そうは思いつつ、縋るようにエフの背に腕を回した。彼の鎖骨あたりに額を付けると、エフのだとわかる香りが鼻をくすぐる。
あの時の女の子。あの時の彼女。──あの時の、私。
強くなりたかった。だから泣くのをやめた。強くなれた。泣かなくなった。
大なり小なり憎からず思う相手ができて、今は少し緩んでいるだけだ。『すき』を見せているだけだ。
だから今になって、涙なんて流れたのだ。
「うん、そうする」
目を閉じようとすると、わずかな水が瞼によって押し出されてしまう。
「……またあくび出てるわよ」
エフが動いたと同時に咄嗟に目をつむった。小さな音を立てて眦に唇が触れた。
私の嘘を嘘とわかっているくせに、それでも嘘に乗ってくれる。私の意地を認めてくれる。
そんなエフのわかりにくい優しさに、また少しだけ涙が出た。