始まればふたりの世界

ふと思い至っただけだった。
隣を歩く彼女を少し見ると、唇に目が留まったというだけで。

元が銃と言えど、体は人そのものなのでそういう欲求も湧く。徐に、自分の唇を指でなぞった。

 

「ねぇ、ちょっと」
「ん? どうかした、」

 

彼女の腕を掴んで立ち止まらせる。
どうかしたの。彼女がそう言い終わる前に、腕を引いてこちらに体を預けさせる。
流れるような動作で頬に手を当てて、そのまま唇を重ね合わせた。

突然のことに彼女は驚いたようだったが、すぐに状況を受け入れたのか拒否の意思は見せなかった。
それどころか、エフの首裏に手を添えるサービス付きの応答にはこちらが驚かされた。

季節のせいか少しだけ彼女の唇はかさついている。
しかしお互いが吐く息と唇の触れ合いから、徐々にしっとりと潤いを帯びてくるのが感じられた。

……ああでも、こういうのって余計に乾燥するのよね。
そういうケアにあまり頓着しない彼女に、あとでリップバームを貸してやらなくてはと思いつつ、腕を背中のほうへと移動させた。

人気がないと言えどここはどこかの部屋ではない。廊下の陰で人知れず自分がこんなことをするとは。
そうは思っても、どうにも今はすぐに彼女を離せなかった

 

「……、エフ、」
「……静かにね。いい子だから」

 

キスしているのかしていないのか。そんな距離で交わされる会話には、お互いにすぐ離れようという意思は微塵も含まれていなかった。

可愛がるように、ちょんと鼻をつつくと彼女は照れたように笑った。
いつもは嫌味を含んだ軽口が止まらないが、こういうときの自分はやけに彼女を甘やかす。そういう自覚はあった。

普段、わざとつっけんどんな態度をとっているわけでもないが、その反動がこういうときに出るのだろうか。
しかし考えたところでどうでもよかった。

触れ合わせるだけだったり、ついばむように少し強めに押し当ててみたり。
そんなことを繰り返している中で、ふと視界の端に何かが映り込んだ。視線だけをそちらに向けると、映ったのは二人の一般兵だった。

エフの視線に気づいたか二人はびくりと肩を震わせる。
さすがに声を上げてこちらの邪魔をするほど馬鹿ではなかったようだが、どうすればいいのか混乱したような動きを見せた。

しかしエフは慌てることもしない。人が来たからといって、キスを中断して彼女を離すつもりもなかった。
一般兵に手の甲を向け、二回ほどひらひらと振ってやる。

撃たれたくなかったら、あっち行きなさい。
口に出さない意図は伝わったようで、一般兵らは大きく頷いたあとに急ぎつつ且つ音を立てずに立ち去って行った。
……やぁね、見られちゃったわ。

部下の調教ならばともかく、自分の恋愛模様を公開する趣味はない。
まぁ別に、キスくらい見られてもなんてことはないんだけど。

意識を再び彼女に向ける。
唇を離して、その真横に音を立てて口づけてやるとゆっくりと目を開いた。
少し肌を色づかせた様は初な少女のように見えるが、こちらを見る目はどこか品の良い美しさがあった。

見られてもどうということはない。
しかし彼女のこの表情を他者に見られるのは嫌だった。彼女は一般兵に背を向けた状態だったので、おそらくその心配はないだろう。

軽く頬にキスをして、体に回していた腕を解く。
一時の終わりというのを理解した彼女はいつも通り戦闘員の顔に戻り、後ろを振り向いた。

 

「一般兵でも来てた?」
「なによ、気づいてたの」
「まぁね。さすがにエフでも、来たのが他の貴銃士とか上官とかだったらやめるでしょ」

 

微笑む彼女に随分と理解されていたらしい事実に、嬉しいような悔しいような。そうね、と短く返事をした。

しかし少し考える。
彼女は一般兵が来たことに気付いていたが、拒否する意思表示はなかった。つまりわかっていてキスを受け入れ続けていたということだ。
それを理解して小さくため息を吐く。

 

「アンタってけっこう強かよね。普通、人に見られるとか嫌がるモノじゃないかしら」

 

エフが人のことを言えるわけではないが、彼女は自分ほど尖った性格や思考ではないだろう。
んー……、と彼女は少し考える素振りを見せる。

 

「まぁ、やっぱりそういうのを人に見せる趣味はないけど」
「ふぅん、今と矛盾してるわよ?」
「今のはなんていうか、優越感みたいなのがあったかな。……エフがこんなに情熱向けてくれるのは、私だけかなって思って」

 

あとは単純に、一般兵ごときが私たちの邪魔しないでって思ったし。
とん、と人差し指で胸の真ん中を突かれる。いたずらっぽく笑う彼女が背を向けて先を歩き出した。

察しのいい彼女のことだ、きっとこちらをすぐに振り向きはしないだろう。
案の定、付いて来ないエフに対しては背を向けたまま「置いてっちゃうよー」と手を振っている。
必ず彼女と共に向かう必要もないのだが、この状態で置いてけぼりを食らうのは得策ではないだろう。速足で追いかける。

……なによ、自惚れたこと言ってくれちゃって。
しかし否定する気も起きない。口元に当てていた手を外し、赤くなった顔はなんとか普段を取り繕えていると思いたかった。

 

 

馬鹿なことを考えた。
彼女と知り合ってから、どうにも自分はどうしようもないことばかり考えてしまう。どうしてくれるのよ、と責任転嫁してしまいたい。

自分はどうしてこんなに彼女を繋ぎ止めておきたいのだろうか。
この世界に、世界帝府に、自分のところに。
これが『恋』などと言うものならば、なるほど面倒なものだと思う。しかしそもそもの話、果たしてこれは恋なのか。

キスだのハグだの、当たり前のようにする関係になってからしばらく経つが、今さらながらそんなことを考える。
アタシはこの子に恋してるの? それともそうじゃないの?

恋と言われてしまえばそうだと思える。しかし違うと言われてしまえばきっと違う。
理由はどうあれ、これは『執着』だと誰かに言われてしまえばそれまでのことだろうと思える。

目を開けると、うすらと目を開けていた相手と目が合う。
舌をねじ込むように唇を押し当てれば、彼女はぎゅっと目を閉じる。
苦しいのかもしれない。だが今はあまりかまっていられなかった。

合わせた唇から息を共有して、抱き締めた体から温度を共有して、そのまま──もっと、もっともっと自分のモノになれ、と。
そういった欲求が頭から離れない。恋かどうかそんなこともわからない程には。

それまで促すようにこちらを抱きしめていた腕が動き、軽く肩を押される。
さすがに苦しかったようで、仕方がないからゆっくりと唇を離してやる。
閉じられていた瞼が開き、とろりとした視線に射抜かれた。

頬に手を当ててやると、彼女は甘えるようにこちらの手にすり寄ってくる。少し熱っぽい息を吐き、彼女がこちらを見上げる。

 

「エフ……、どうかしたの?」

 

ああ、やはりこちらの様子には気づいているか。
人の機微に目敏く気づいてくるのは彼女の長所で、今この瞬間は短所だ。
訊かれたところで、エフ自身が素直に言えるわけもないのだから。

 

「なんでもないわよ」

 

そう言いつつもエフはそっと、まるですがるように彼女の肩に額を付けた。意図せず、口元は笑みを浮かべているのが自分でわかる。

馬鹿なことを訊きそうになった。
気づいてくれたことにらしくもなく甘えて、馬鹿な問いかけをしそうになった。……勘弁してちょうだいよ。
なんでもない、とそれ以上を言わないこちらに対して、彼女もそれ以上の追及はしてこない。

ただその代わり、エフの背中に腕を回し髪を撫でてきた。あやすようなそれには若干イラつかないこともないが、息をついて笑う。
アタシは子供じゃないのよ? ホントに、おかしい子。アンタがおかしいから、アタシにもおかしいのがうつったじゃない。

撫でる手を掴んで止めさせる。顔を上げてしまえば、再びこちらが彼女を見下ろす側だ。

 

「エフ?」
「……ねぇ、」

 

言いかけて、またやめた。
このままだと、勢い余って馬鹿な問いかけが口から出てきそうだった。だからごまかすために、当たり前のようにまた唇を触れあわせた。

どこか腑に落ちないような表情だったが、相変わらず彼女は拒否をしない。
受け入れるようにゆっくりと彼女は目を閉じた。それに合わせてエフ自身も目を閉じる。

 

『私はエフのこと、けっこう好きだけどね』

 

ふと、いつぞやに彼女から言われた言葉が思い出された。
あの頃はこんな関係ではなかった。どのみち、その時の『好き』の意味がどうだったかなどということはわからないのだ。

それでも、あの時も、思い出した今もそう言われて嫌な気持ちは一切ない。そこまで考えてそっと目を開ける。

こんなにも近くにいるこの人を、紛れもなくエフは手放したくないと思えていた。そうだ、それでいい。
唇を合わせ続ける。頬に手を添えて、唇を少し離しては触れることを繰り返す。

……どうでもいいわ。どうでもいいのよ、恋かどうかなんて。
恋じゃなくても、執着でも。アタシが今、この子を離したくないって思うんだから、それでいいのよ。

なんでもよくて、どうでもいい。そう思えた。考えても仕方がない。
きっと答えは、少なくとも今は出さなくていい。彼女がどう思っているかもわからなくていい。
ただ彼女を手放さず、こうして触れ合えていられればよかった。

そう思っちゃうくらいには……、アンタのこと好きよ。
そんなことはきっと、よほど自分に焼きが回らなくては言えない気がする。
同時に、先ほど言いそうになってしまった馬鹿な問いかけも、焼きが回ったいつかのときに訊いてみたいと思う。

 

(アンタは、アタシのこと好き?)