夜に始まるグラジオラス

さぁ、窓を開けなくちゃ。

私の一日は朝起きてからリビングの窓を開けて、そこから始まる。
ゆるりと吹いた風で届くは、朝の香り。今日はいい天気だ。洗濯がはかどりそうだ。

 

「おはようルカリオ」

 

先に起きていたルカリオがこちらに寄ってきて、服の袖を掴む。あ、そうだ。

 

「ごめん、パジャマのままだったね。すぐ着替えるよ」

 

頷いたルカリオに苦笑いを返し、部屋へと戻りクローゼットを開ける。
けれど首を傾げた。着ようと思っていた服がない。ハンガーに引っ掛けておいたと思ったのだが、なぜか見つからなかったので他の服を選んだ。

再びルカリオのもとへ戻ると、彼がトースターにパンをセットしてくれていた。
その隣で、私は電気ケトルに水を入れスイッチを押す。ええ、と、インスタントのスープは……。

 

「ガウ」
「あ、そうだよこれこれ。ありがとう」

 

どこに置いていたっけ、と棚の近くをきょろきょろしているとルカリオが引き戸を開けて目的のものを取り出してくれた。
ルカリオは本当に私のことをよくわかってくれている。この家のこともよくわかっている。いつからルカリオと一緒にいて、いつからこの家に住んでいたかは覚えていない。そのくらい一緒にいるから、私にとってはあまり重要なことじゃない。

お湯が湧き上がり、パンも焼けた。
ルカリオへポケモンフーズも用意して、朝ごはんの準備はばっちりだ。はじまりの朝に、朝ごはんは絶対必要だ。
食べ終えたら食器の後片付けをして、洗面所へ向かう。
歯磨きをしながら洗濯機を回そうと思ったのだが、洗濯かごには服が全く入っていなかった。首をかしげつつ洗面所を出ると、ルカリオがリビングで洗濯物を外していた。
あ、洗濯は昨日やったのだったか。さっき、着ようと思っていた服もそこにあった。ルカリオが外してくれた服を畳む作業をした。

ゆっくりと午前中を過ごし、お昼を済ませて本を読む。
本のページをめくったとき、玄関のチャイムが鳴った。

 

「あ、いいよルカリオ、私が出る」

 

立ち上がったルカリオを留めて玄関へと向かう。お客様が来たのに、出迎えるのがポケモンというのも失礼だ。それにしても誰だろう。
玄関のドアを開けると、青いジャケットを着て青い帽子をかぶった男の人がいた。

 

「こんにちは」
「あ、こんにちは」
「突然すみません。少しお聞きしたいことがあるんですが」
「はい、なんでしょう? 私がお答えできることであれば」

 

その人は柔らかく笑う。突然の訪問だったが、この人は別に悪い人ではないだろうと感じた。本能的に、そう思った。きっと優しい人なのだろう。

 

「おそらく、あなたにしかわからないことだと思うのです」
「私が……?」
「こちらの庭にある花が綺麗だったので、なんという花なのか気になりまして。よろしければ教えていただけないでしょうか?」
「花……? あ!」

 

言われて思い出した。花に水をやらなければいけなかったのだ。

 

「庭の花ですね。お安いご用です、こちらにどうぞ」
「ありがとうございます」

 

サンダルをつっかけて玄関から庭へと向かう。外の水道近くに置いていたじょうろに水を入れ、花壇へと向かった。男の人も私の後ろから付いてくる。

花に水をかけながら、少しその人と話をした。
ゲンと名乗ったこの人は、この町に住んでいて今は散歩中であったらしい。そこで、うちの花壇の花が気になったのだという。

 

「あ、そうだ、ゲンさんはこの花の名前が知りたかったんですよね?」
「はい」
「これはですね、えっと……」

 

答えようとしたのだが、その名前が出てこない。なんだったっけ……。
ゲンさんは黙って私が言葉を繋ぐのを待ってくれている。

 

「すみません、ちょっと、ど忘れしてしまって……」
「そうですか。いえ、大したことではないので気にしないでください」
「ほんとにすみません……。あの、調べておくので、もしよかったらまた明日来ていただけませんか?」
「本当ですか? では、お言葉に甘えてまた明日もこちらに伺います」
「はい、ぜひ」

 

怒るでもなく呆れるでもなく、ゲンさんは笑って了承してくれた。
うん、ゲンさんはとても優しくていい人だ。初対面にもかかわらずこれだけ話をしていて落ち着く人は、そうそういないだろう。
また明日も来てくれないかと言ったのは、またゲンさんと話をしたいと思ったからだというのは、こっそり胸にしまっておこう。

 

「今日は突然失礼しました。それでは、また明日」
「はい、待っていますね」

 

水やりをしながらのお話は終わりを告げ、玄関先でゲンさんを見送った。玄関から顔をのぞかせていたルカリオにもゲンさんは会釈してくれた。
小さく手を振って去っていくその後ろ姿は、どこかで見たことがあるような気がしたけれど、私たちは今日が初めましてだった。同じ町に住んでいるのだし、もしかしたらどこかで見かけたことがあるのかもしれない。

 

夕食もお風呂も済ませて、もう寝る時間だ。
眠気に目こする私に、ルカリオは部屋へ行くように促した。

 

「それじゃあおやすみ、ルカリオ」

 

ルカリオはリビングで寝るのがお気に入りのようで、私と同じ部屋では寝ていない。
ルカリオももう寝ることにしたのか、ぱちりとリビングの電気を消す音を聞きながら私は寝室のドアを閉めた。ベッドに入ると、すぐに瞼が落ちてくる。

ああ、なんだか、今日はとてもいい日だったような気がする。

 

 

ああ、また明日がくる。

街灯に照らされた広場の時計は、そろそろ日付が変わる頃を示していた。彼一人の足音ごときでは、夜の町に音が響くことはない。
慣れた道順を辿り、一軒の家へとたどり着く。
玄関のドアを、とても小さい音で二回叩く。するとドアの向こう側からも、小さくたたき返す音がする。

 

「ルカリオ、私だ」

 

それに返事をするように、ドアが開いてルカリオが顔を見せる。
こうしてルカリオが出てくるということは、彼女はもう眠ってしまっているということなので、そっと中へ入らせてもらう。

 

「……今日は、どうだった?」
「……グル」

 

ルカリオが浮かない顔をしている時点でそうだろうとは思ったが、いつも通りの報告だった。
それは昼間に目の当たりにしたのだから自分だってわかっているはずなのに、見ていないところで何か変化があったのではないかと、淡い期待をしてしまう。それでもう何度、期待しても意味がないという事実を叩きつけられたのか。

靴を脱いで家の中へと足を踏み入れる。暗いままの廊下を進み、月明かりの差すリビングへ入った。

部屋の隅には畳まれた洗濯物が置かれたままだった。その近くには、畳まれることのなかった一部の服が散らばったまま。しゃがんでその一部を畳み、重ねた洗濯物はわかりやすいテーブルへと置いておく。

テーブルには、本が一冊置かれたままだった。ゲンがここを訪れる前に読んでいたもののはずだ。
昨日見たのと同じタイトルだ。いや、もうこのタイトルを何度見たか知れない。その一冊を本棚へとしまった。
明日の昼に自分がこの家を訪れる頃には、またこの本を彼女は読んでいるのだろう。

 

今日もまた、「初めまして」だった。
何度も何度も会っているのに。

今日もまた、「初めまして」だった。
長らく一緒に過ごしてきたのに。

今日もまた、「初めまして」だった。
仕方のないことだとわかっているけれど。

 

「……ガウ?」
「……ああ、私の生活は心配しなくていい。この家のことは私以外では、お前しかよく知る者がいないんだよ。私がいない分、昼間は変わらずルカリオに任せたい」

 

ルカリオが強く頷いてくれることだけが救いだった。
我が手持ちのポケモンながら、これほど信頼を置ける者は他にいない。昼間に彼女を任せておけるのは、ルカリオしかいない。

洗濯物を畳む作業の途中でトイレにでも立ったのかもしれない。作業は途中で忘れられていた。

読んでいた本は、ゲンが来たことで中断され、そのまま忘れられた。

花の水やりも。庭に花があることすらも。だからゲンがここに来る。そして花の存在を思い出す。

そのときに会うたびに、「初めまして」の挨拶をかわす。彼女と他愛のない話をして、ゲンはこの家を去る。

それを繰り返す。
そして彼女が眠りに落ちた夜に、彼女がやり残した、やり忘れた、放置してしまった物事の後始末をする。元々ゲンもここで暮らしていたのだ。この家の勝手はお手の物だ。

花の名前を、彼女は今日も思い出せなかった。共に暮らしていたころは、すらすらと言えていた。
また明日来ていただけませんか、と言われた。もちろん来るさ、それが自分の役割だ。だが明日ここを訪れても、玄関のドアを開けた瞬間、彼女は初対面の人に対する顔をするのだ。

この家に“明日”はない。
毎日が“今日”なのだ。
彼女は何の疑問を持つこともなく、朝起きて夜寝るまでの、延々と“今日”という日常を繰り返す。毎日同じことをして、それを退屈と思うこともなく。

彼女は忘れてしまう。そういう病気を発病してしまったとわかり、共に暮らすゲンのことさえ忘れ始めてしまい怯える彼女を、それならばいっそ他人として見守っていこうと決めたのだ。

壁にかかった時計の針が動いて、日付が変わる。
今日が昨日になり、明日が今日になった。
昨日の初対面を果たした自分は、彼女にいい印象を持ってもらえただろうか。
今日の昼にまた初対面を果たすだろう自分は、いい印象を持ってもらえるだろうか。
何度目になるかわからない「また明日来てください」を、また言ってもらえるだろうか。

 

「あの花は……グラジオラスというんだよ」

この場にはいない彼女に向けるかのように独りごちた。
「調べておく」と言っていたことは、今日も実行されることはなかったけど。
でも、毎日君が「調べておく」と言ってくれる度に、もしかしたら思い出すのではないかと私は期待をかけてしまうんだよ。いつの間にか流れた涙を拭う。

 

「グル……」
「ああ、わかっているよ」

 

いつも、最後に行うことをしなくては。
彼女の“今日”を止めることはしてはいけない。彼女のわずかばかりの平穏を奪うことなど、ゲンもルカリオも望まない。だから自分たちも、彼女の“今日”に溶ける。

明日になれば、いや、きっと眠る前からすでに、彼女は今日出会ったゲンのことを忘れてしまっているだろう。

 

「今日の昼も、任せたよ。ルカリオ」

 

ルカリオが頷いたのを見届けて、開け放たれたままの窓へ近づく。

私の一日は深夜にリビングの窓を閉めて、そこから始まる。
ゆるりと吹いた風で届くは、生ぬるい夜の香り。今日はいい月夜だ。

さぁ、窓を閉めなくては。
朝になったら、また君が一日を始められるように。
そのためなら、私は何度でも君と初対面でいよう。

―――
忘れて繰り返す恋人とゲン。