「アーロンさん」
もはや見慣れた背中に声をかけると、その人は振り向いてくれる。
振り向いて少し微笑んで、そして立ち止まってくれたのは私を待ってくれるためだ。つまりは一緒にいてもいいという意味であるため、躊躇なく駆け寄った。
「こんにちは。散歩ですか?」
「ああ。ナマエはどこへお出かけかな」
「私も同じです。アーロンさんが来るかなって思って」
一緒に歩き始めると、私が声をかける前よりも歩く速度を遅くしてくれているのがわかる。
他にも、並んで歩くのに馬車が通る側を歩いてくれていることとか、つまらない話題でもちゃんと相づちを打って聞いてくれているとか。アーロンさんの優しいところはたくさんある。
「それでね、アーロンさん」
「ああ」
でも、私を邪険にしないアーロンさんは優し過ぎて、本当は何を思っているのかがよくわからない。
いつも優しく笑ってくれる。それは嬉しい。
「ナマエは私にたくさん話をしてくれるが、飽きないか?」
「飽きるわけないじゃないですか。私はアーロンさんのことが好きなんですから」
そう言うと、アーロンさんは困ったように笑った。
同じ笑顔ではあっても、いつもの優しい笑顔が崩れる唯一の瞬間だった。
アーロンさんは旅の人で、今はこの町に一時的に留まっているだけでここに特定の居住を持っているわけではない。
ある日、見たことない人だなと思って見たら、偶然目があったのが始まりだった。
何度か交流しているうちに、気づいたらとても好きになっていた。でも、いつアーロンさんがこの町を出ていくかわからない。だから、この人を好きだと自覚してすぐに私は意を決してそれを伝えた。
驚いた表情の後で、ありがとうと言ったアーロンさんは今と同じような困ったような顔で笑っていた。
──……ありがとう、とても嬉しい。
アーロンさんはそれ以上何も言わなかった。ありがとう、と。それ以上も以下もない。
けれど普段は言われると嬉しくなるはずの感謝の言葉は、この時ばかりはひどく残酷な言葉だと思えた。
ああ、だめか。つまりは、そういうことなのだろう。恋愛経験なんて皆無だけど、あの時の言葉が示す意味もわからないほど私も子供ではなかった。
──いえ……こちらこそ、ありがとうございます。
頑張って、少し大人ぶった返しをした。
でも、実際はなんと言うのが正解だったのかわからなかった。うまく笑うことができなかったから、不相応な背伸びをきっと見抜かれていたと思う。
理解はしていた。だめだった。アーロンさんは私を好きではない。
それでも、すぐにすっぱりと諦められるほど潔くはなれなかったのだ。
まるであの告白はなかったことのようになってはいるけれど、アーロンさんはそれ以降もこうして隣を歩くことを許してくれている。私はわかりやすく、それに甘えてしまっていた。
「アーロンさんこそ」
「うん?」
「私が迷惑じゃないんですか?」
足元の小石を蹴ると、石造りの道を音を立てて転がっていく。
アーロンさんが立ち止まったのはわかったけど、私は構わず数歩先まで歩いた。後ろは振り向かない。
「ナマエ……。……その件は、すまなかった」
「……勘違いしないで欲しいんですけど、別に怒ったりしてるわけじゃないです。見くびらないでください」
アーロンさんが私を好きではないことは、別にそれで構わない。
好きな人とお互いに想い合っている確率なんて、低くて当たり前だ。そもそも想いが伝わらなかったからといって相手を責めるなんて筋違いだ。そのくらいの分別はある。
「でもごめんなさい。嘘をつきました」
お断りされてしまったことについては怒ってなどいない。でも、アーロンさんには少しだけ怒っている。
「中途半端は、つらいです」
あの後も、どうして変わらず隣を歩いてくれるのか。
どうして変わらず優しいのか。どうして、まだ私が「好き」と伝えることを何も言わないのか。
さっきのように会話の中で再び好きと伝えても、アーロンさんは困り顔で笑うだけで、肯定も否定もしない。困らせるとわかっていたけど、わざと何度もそうしてきた。
迷惑だ、いい加減にしてくれと言って欲しかった。つらいけれどそれを望んでいた。
曖昧に笑うくらいなら、立ち直れないくらい突き放してくれたほうがどれだけよかったか。
そうでもしてくれないと。
どうして私を好きじゃないんですかと喚くような子供ではないけれど、自力でこの人から離れることができるほど、まだ大人じゃない。
「ナマエのことは好きじゃない」
後ろからの声に、肩が震えた。
「迷惑だ。気持ちには応えられないから、いい加減やめてくれ」
続く言葉を背中で受け止める。矢が背中に刺さるみたいだ。痛い、痛い。
やっとはっきり言ってもらえたのに、望んでいたことであってもやはり痛い。
「……そう言って欲しいのだとしても、残念ながら無理だ。言えたとしても、本心からは言えないな」
はたとまばたきをして、思わずアーロンさんを振り向いた。振り向く感覚は、早かったような遅かったような。
今の私は呆けた顔をしているのだろう。アーロンさんは私へ近づくと、頭に手を乗せてぽんぽんと撫でる。
「だが嘘をついてでも、あの時はそう返事をするべきだったな」
あの時と言うのは、きっと私がアーロンさんに気持ちを伝えた時のことを言っている。するべきだった、というのは、どういうことだろう。本当はそうしたくなかったということ?
「よく、わからないんですけど……」
「その気持ちが嬉しいと言ったことは本当だ。……だが、いずれ町を出ていく私がナマエをずっと縛り付けてしまうのは酷だ。またこの街に戻って来れる保証もない」
ゆっくりとその言葉の意味を噛み砕く。
「ナマエはこの街の男性と幸せになるべきだと思っていた。だがあの時……、今もそうだが、ナマエを突き放せなかったのは、ただの私のわがままだ。ナマエに甘えていただけなんだ。」
それ以降もこうして一緒にいるのも、#ナマエ#が私を好いてくれていることに甘えていたんだ。私は。
言いつつ私の頭を撫でる手は温かい。
……そうか、そういうことだったのか。アーロンさんは私のことをよく考えた上で、あの答えを出していたのだ。
旅人であるアーロンさんは、またこの街に戻って来れるかわからない。
それなのに私を受け入れて、いずれ街を出て私と離れ離れになって、そうして曖昧な関係となるのを危惧したのだろう。
それによって私が寂しがり、悲しんでしまうことを。ならば旅人の自分ではなく、他の男性といたほうが私が幸せになれるだろうと。
「私は、ナマエに幸せになって欲しいと思っているんだ」
私のことをそこまで考えてくれていた。少しだけ視界がにじんでしまう。
アーロンさんがそれほどに私のことを考えていてくれたことが嬉しい。……でもやっぱり、アーロンさんは私を見くびっている。
旅に一緒に連れて行ってくださいと駄々をこねるつもりはないけど、
「アーロンさんが、またここに戻ってきてくれるのを待ってるくらいの器量はあるつもりですよ。だから縛られるわけじゃないです」
ぱちくりと瞬きをするアーロンさんに、なんだか少し優越感を抱いた。
嘘の答えなんて、欲しくなかったのに。それなら本心で断られたほうがいっそすがすがしいじゃないか。いや、やっぱりそれもそれでつらいけど。
「私もアーロンさんに幸せになって欲しいです。だから『絶対に戻ってきてください』って言って、アーロンさんを縛るようなことはしたくありません」
でも私の幸せを願ってくれているなら、私の幸せのためにアーロンさんがここに戻って来てくれることを考えてもいいですか。
これは約束ではない。あくまでも私が勝手に待っているだけだ。私たちにはそれがいい。その覚悟があるから、私はもう一度言えるのだ。
私だって、アーロンさんの優しさに甘えていた。
「好きです、アーロンさん」
もう一度。今度は本当に、本心からの答えを聞かせてください。
アーロンさんはまた困り顔で笑ったけど、観念するか、と呟いた。